金の鳥籠――満たされぬ光の中で
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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領主ルドルフの娘、イザベル。
誰からも愛され、誰にも愛さない少女。
完璧な美と名誉の中で、彼女はいつも同じ笑顔を貼りつけていた。
ある日、父に連れられた孤児院で、1人の少年に無礼な言葉を浴びせられる。
それは、ただの生意気な子どもの一言。
けれど――。その瞬間、イザベルの心は初めて“動いた”。
朝の光は、磨かれた白い壁に跳ね返っていた。
領主ルドルフの館。
イザベルは鏡の前に座り、侍女の指先が金糸の髪を梳いている。
「お嬢様、本日もお美しいです」
「そうね。……いつも通りよ」
口元に微笑みを作る。
完璧な角度、完璧な形。
それが美しいと教えられてきた。
でも、鏡の中の自分がどこか遠い他人に見えた。
「この笑顔、誰のためなのかしら」
小さく呟いた声に、誰も答えない。
朝の鐘が遠くで鳴った。
昼下がり、家庭教師の朗読が響く。
「人は皆、神の前では平等です」
イザベルは窓の外に目をやり、退屈そうに言った。
「でも神は、アタシに金の食器を与えて、あの人たちには木の匙しかくれないの?」
教師は顔を強ばらせた。
「お嬢様、それは……」
「いいのよ。言い訳はもう飽きたわ」
その沈黙が、いつもは勝利のように思えた。
けれど今日は、少しだけ胸が痛んだ。
笑い声が聞こえた。
庭師の少年たちが泥まみれで走り回っている。
その笑顔が、やけにまぶしかった。
「あんな風に笑ったの、いつだったかしら」
晩餐の夜。
蝋燭の光がワインを透かし、赤い影を作る。
父ルドルフの声は低く、硬かった。
「イザベル。いずれ、お前を枢機卿の甥に嫁がせる。それがこの街のためだ」
イザベルはフォークを置き、静かに言った。
「……アタシの意思は?」
「お前のためを思ってのことだ」
その優しさは、氷のように冷たかった。
「父上の守りたいものに、アタシは入ってないのね」
晩餐のあと、廊下を歩いた。
金の燭台が並ぶ廊下、絨毯は深紅。
それなのに、音も温度もなかった。
「これが幸福なら、息ができないわ」
翌日、ルドルフに同行して孤児院を訪れた。
馬車の車輪が石畳を軋ませる。
城下の風は湿っていて、土と薪の匂いがした。
院長が深く頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、領主様、イザベル様」
「思っていたより静かな場所ね」
イザベルは香袋を胸に押し当て、淡々と微笑んだ。
「ここが静かなのは、皆が働いているからでございます」
院長がそう言いかけた時――
影の中から、ひとりの少年が現れた。
褐色の髪、擦り切れた上着、裸足。
それでも、その瞳だけは曇りがなかった。
少年はイザベルをまっすぐに見上げて言った。
「きれいな服だな。……でも、苦しそうに見えるな!」
空気が止まった。
ルドルフの眉が動く。院長が青ざめる。
「無礼な真似を――!」
ルドルフの声が低く響く。
だが少年は怯まなかった。
「そんな顔してたら、きれいな服がかわいそうだ」
「……何?」
イザベルの声がかすれる。
少年は首を傾げた。
「笑ってないからさ」
イザベルは何も言えなかった。
怒りでも、羞恥でもない。
ただ、心の奥で何かが軋んだ。
「アタシは……笑ってたわよ」
「そう? じゃあ、それ、練習した笑い方だ」
あまりに真っ直ぐで、あまりに無礼。
けれど、不思議と息苦しくなかった。
院長が慌てて少年の腕を掴む。
「申し訳ございません、この子は――」
「いいわ」
イザベルは静かに遮った。
「罰しないで」
彼女の声は、驚くほど柔らかかった。
馬車の中。
夕陽が金の装飾に反射して揺れる。
ルドルフは無言で書状を読んでいた。
イザベルは窓の外を見ながら、手袋の下の指先をぎゅっと握った。
――笑ってないからさ。
あの言葉が何度も頭の中で揺れる。
「アタシは完璧に笑ってたはずよ」
でも、その“はず”が自分を刺した。
彼女は窓に映る自分を見た。
そこにいたのは、誰よりも美しく、
そして――誰よりも孤独な少女だった。
「……アタシ、何を探してるの?」
その声は風にかき消された。
けれど、胸の奥で、小さな何かが確かに動いた。
それが何か、まだ知らない。
けれど、あの少年の言葉だけは、なぜか消えなかった。
本作は“誰も見ていない鏡の中で、イザベルがひとり微笑んでいた頃”の物語です。
彼女は傲慢で、美しく、何も欠けていないように見えます。
けれど、実際には「誰からも本当の意味で見られていない」。
孤児院での少年との対話は、彼女が初めて屈託ない他者の目に触れる瞬間です。
少年の無礼な言葉は、彼女の完璧を砕く刃であり、同時に、外の世界の現実を覗かせる小さな窓でもありました。
イザベルがこの時に覚えた名もなき違和感――
それが、後に誰かを理解したいという祈りへと変わっていきます。
この物語はまだ、救いの始まりではありません。
けれど、心が初めて動いた日として、彼女の長い旅の第一歩を刻むものです。
■用語説明
金の鳥籠
貴族社会における閉ざされた環境の比喩。
美しさと格式に満ちるが、自由を奪う。
イザベルはこの中で育ち、世界の広さを知らない。
ルドルフ領主
グライフェナウの支配者。
信仰と政治を結びつけ、娘の婚姻も政治的駒として利用しようとする。
枢機卿の甥
教会上層の家系に属する若者。
まだ顔も知らぬが、イザベルには“未来を閉ざす影”として存在している。
孤児院
教会が運営する慈善施設。
市民からの寄付で成り立ち、貧しい子どもたちが暮らす。
イザベルが初めて「自分を知らない人間」に出会った場所。
無名の少年
イザベルに無礼な言葉を投げかけた孤児。
名は与えられない。
彼の存在は、イザベルにとって“世界の現実”であり、
そして“初めての他者”そのもの。




