黒い布紐――祈りの届かぬ夜に
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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北方遠征に駆り出された夫が帰らぬまま、祈りだけを支えに生きる女、リーナ。
彼女の手首に巻かれた黒い布紐は、夫を忘れられない証であり、
信仰の名を借りた“希望の枷”でもあった。
神は何も答えず、祈りは空へ消えていく。
だが、ある吹雪の夜、リーナはひとりの若者を助ける。
――その小さな行為が、やがて「癒し」の時代を呼び寄せる、最初の灯となる。
鐘の音が、凍った空気を裂いた。
霧の街グライフェナウは、冬ごとに人の影を減らしていく。
男たちは毎冬の北方遠征に招集され、春の雪解けを待たずして帰らぬ者が多い。
リーナの夫も、その1人だった。
戦死の報せは届かない。
だからこそ、彼女は“信じる”ことでしか立っていられなかった。
いつか戻ると。どこかで生きていると。
けれど、それはもう、希望というより惰性の祈りだった。
寡婦の会の列に並び、修道院の鐘とともに膝をつく。
石の床は冷たく、祈りの言葉は白い息に紛れて消える。
彼女の指には、黒い布紐。
“喪の印”であり、夫への祈りそのもの。
それを外すことは、忘れることに等しかった。
毎晩、指で結び目をなぞっては、外そうとしてやめた。
「神はお望みでしょうか。わたくしが、夫を忘れることを」
小さく呟いても、答える者はいない。
修道院の鐘だけが冷たく鳴り響く。
ある日、修道士が寡婦の会に現れた。
香の匂いをまとい、机に札束を並べる。
「これは祈り札です。奉納をすれば聖鷲獅子の加護が得られる。1枚、銀貨1つ」
ざわめきが広がる。銀貨一枚。食い詰めれば3日の食費に等しい額。
それでも誰も逆らわない。信仰を疑えば、生きる場所を失うから。
リーナは財布を開いた。
中には、夫が出発の朝に残した銀貨が30枚。今は、もう3枚しか残っていなかった。
「困ったときに使え」と言った声が蘇る。
けれど、差し出したら、本当に夫が遠くへ行ってしまう気がした。
修道士はやさしく言った。
「あなたが祈りを捧げれば、彼の魂も安らぐでしょう」
リーナは首を横に振った。
「……すみません。今は、まだ」
夜。強い風が窓を叩く。
その音が、自分の名を呼んだように聞こえた。
――夫が帰ってきた!
胸が跳ねる。戸口を開けると、吹雪の中に人影があった。
旅の青年が雪に倒れていた。
頬は青ざめ、唇は震えている。
リーナは迷わず引き入れ、炉を焚いた。なけなしの薪で部屋を暖め、夜通し世話をした。
翌朝、青年は目を覚ました。
「助けてくださって……ありがとう」
夫に似た声に、涙が滲む。
「いいの。生きていてくれて、よかった」
青年は一礼して去った。
残ったのは、暖炉の灰だけだった。
リーナは布の端を指で撫でた。
「神さま。あなたはやっぱり、何もしてくれなかった。でもね、わたくしが動いたら、ひとりの命が助かったの」
祈りは届かなくても、祈った姿勢が誰かを救う。
なら次は――。祈るだけでなく、支える側になろう。
彼女は布紐を結び直し、今度は二度、固く締めた。
「わたくしも……人を救えました。
いつか、人を救える人が現れたなら――
その人を、今度はわたくしが救いたい」
その声は震えていたが、確かな意志を宿していた。
窓の外では、雪が光を反射していた。
遠くの鐘が、霧の街に響く。
リーナは小さく息を吐き、目を閉じた。
その眠りが、いつか誰かの救いにつながることを信じて。
本作は「異世界で癒しを求めたら、神になりかけた日」の前日譚です。
田中がまだ現れていないこの世界で、“祈り”が“癒し”へと姿を変えていく、その最初の瞬間を描きました。
リーナは、信じるしかなかった人です。
でも、祈り続けた末に見つけたのは、「神に願うこと」ではなく「自ら手を伸ばすこと」でした。
彼女の決意が、のちに田中を支え、信仰の静寂から生まれる「癒しの物語」の始まりになります。
■用語説明
寡婦の会 (かふのかい)
グライフェナウ修道院の支援組織。北方遠征で夫を失った女性たちが祈りと奉仕を行う。
実質的には生活保護を兼ねた共同体で、信仰を口実に生き延びるための居場所となっている。
北方遠征
毎冬、王国が実施する対魔獣討伐および開拓任務。
徴兵に近い制度で、農民や職人も動員される。
帰還率は低く、街には毎年帰らぬ男たちが増えていく。
祈り札 (いのりふだ)
修道院が信者に販売する札。
「加護」「安息」「赦し」などの文句が記され、家に貼ることで災厄を避けるとされる。
本来は奉納の証だったが、作中では信仰を利用した金銭取引の象徴として登場。
黒い布紐
喪服の一部であり、亡き夫を忘れない誓い。
リーナにとっては信じることをやめないという呪いであり、
最後には誰かを救う意志へと転じる祈りの象徴となる。




