賢者の知り得ない感情
建物の影に隠れたカレンはただひたすらにレクスとマリエナを観察していた。
時折レクスとマリエナがクスクスと談笑しながら歩く場面を、カレンはじっと見つめ続ける。
マリエナと楽しげに話しているレクスを見ていると、やはりぎゅうっと胸が締め付けられるのだ。
しかし、何故かその目を離すことができないでいた。
本を抱え込む手の力が、少しだけ強くなる。
「なんで…わたしは…。」
無意識に呟いた言葉に呼応するように、ぽたぽたと地面に雫が落ちる。
「え…?」
カレンの頬には、涙が伝っていた。
その雫はぽたりぽたりと続けざまに地面を濡らしていく。
わからなかった。
カレンの目から滴る心の雫の、その理由が。
それでも、レクスから眼は離せない。
涙を腕で拭い、それでも二人を見続ける。
すると二人にサキュバスの女性が近づく様子が、カレンの瞳に映った。
レクスがマリエナを庇い、女性と言い合いになった途端、カレンの心臓はざわついていた。
(…なんですか、あの女性は。何かあるようなら、私が出ていきましょう。あのクズでも、一応顔見知りです。)
ふぅと息を整え、ハラハラとしながらもレクスの動きを、カレンは伺っていた。
すると女性がレクスに顔を近づける。
カレンは息を呑む。
知っていたのだ。
その動きが、サキュバスの「魔眼」を使う動作であり、「魔眼」が男性を奴隷とするものだということを。
カレンが眼を離せず見つめる中で、サキュバスの女性が口を開く。
「あなた…わたしのものになりなさいな」
その傲慢な声がカレンに届いた瞬間。
カレンの目からハイライトが消えた。
マリエナにではない。
傲慢な声の女性に対する、どろりとした感情が首をもたげる。
(誰が……あなたの物ですか!?レクスさんは……私たちの……!)
カレンは感情に従い、護身用に持っていた短杖に手を伸ばした。
その時だった。
「はぁ!?誰があんたのものだっての?よくわかんねぇこと抜かしやがってよ。」
レクスの声が聞こえ、カレンははっと我に返る。
構えようとした手を戻し、レクスに視線を戻す。
サキュバスの女性はレクスに舌打ちをすると、すごすごと引き下がり、店から出て行った。
その様子にカレンはふぅと安堵したように溜め息をつく。
しかし、頭の中にはある疑問が残ったままだった。
(……あれ?一体、私は何をしようと?なんであの無能を守ろうとしたのでしょうか?)
カレンを突き動かそうとした一瞬の激情。
その理由をいくら探しても出てこないのだ。
不思議に思いつつ、再びレクスとマリエナを監視しようとした時。
カレンは足元にいる何かに気がついた。
「ビ?」
「……なんですか、あなたは。どこから来たんですか?」
黒く丸い球体にちょこんと突起のような手足がついた魔獣のようなものがいた。
無害そうな白い目で、カレンをじっと見ている。
何故かビッくんが、カレンの足元にいた。
「ビ!」
その小さな手で、カレンのローブをくいくいと引っ張る。
まるで自分を抱え上げてくれというような仕草に、カレンは首を傾げた。
「あなた、迷子ですか?…仕方ありません。飼い主が見つかるまでですよ。」
カレンは本を小脇に挟むと、ビッくんをひょいと抱え上げる。
もちもちとした感触が、どこか心地よく感じられた。
抱えられたビッくんはじぃっとマリエナの方を見つめている。
どこか可愛らしいその容姿と仕草に、カレンは自然と口元をほころばせた。
「かわいいですね、あなた。」
「ビ?」
「クライツベルン会長が飼い主でしょうか?置いて行くなんて、ひどい人ですね。」
「ビッ!ビッ!」
カレンの言葉を理解したのか、ビッくんは身体全体を横に振るう。
その様子が、カレンにはどこか可笑しかった。
目元を下げて微笑む顔にはまだ僅かに涙が残る。
しかし、涙そのものは止まっていた。
カレンは顔を上げる。
するとレクスとマリエナがジュエリーショップから出てくる所だった。
どうやら移動するらしく、また手を繋ぐ様子が見える。
またカレンの胸がきゅうと締め付けられる感覚があるが、それでもカレンは二人を見続ける。
不快だが曖昧で、意味不明。
しかし何か大切な感情の正体を、レクスが握っている気がしてならないのだ。
「…行きましょうか。」
カレンはビッくんを抱え、レクスとマリエナを追う。
心にぽっかりと開いた穴、刺さり込んだ感情の正体を知りたいがために。
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