こわかったから
アオイがノアと相対したのと同時刻、制服に何時もの襤褸切れのようなローブを羽織ったレクスは、滅多に座らないハニベアのテラス席に腰掛けていた。
人通りがほぼない何時ものハニベアの前で、通りがかるのは依頼の済んだ傭兵くらいだ。
レクスの隣には、当たり前のように制服姿のカルティアが座って、紅茶を飲んでいた。
相変わらず優雅な仕草だ。
レクスの前にあるのはコーヒーだが、何時も飲むコーヒーとは異なったものを飲んでいる。
少し湯で薄めてあるのだ。
ハニベアのシャミィにレクスが相談したところ、そういう飲み方もあるという事で、サービスしてもらっていたのだった。
レクスがカップを持ち、少しコーヒーを口に含むと、確かに苦味も酸味も軽く、ちょうどいい飲み口だ。
風味が少し減るのが、レクスには気がかりだったが。
カップを口から離すと、レクスはふぅと溜め息をつく。
溜め息に気がついたカルティアがレクスを不思議そうに見つめた。
「あら?どういたしましたの?レクスさん。」
「いや、平和だなと思ってよ。この前までの出来事が、嘘みたいに感じちまって。…奴隷になってた人も大勢いて、貴族も少々検挙されたけど、結局ここら辺の人達は何時も通りかと思ってな。」
「市井の方はそういうものだと思いますわ。……あの時検挙された貴族は、ほとんどが取り潰されました。貴族の称号を剥奪されましたわね。さすがに死罪までは行きませんけれど。王都の孤児院も、一斉に精査が入ることになりましたわね。」
「他の貴族も大変だろうな。奴隷買ってた奴らの尻拭いをしなくちゃならねぇだろうしよ。仕事増えててんやわんやだろ。……平民で本当によかった。面倒ったらありゃしねぇ。」
「あら?レクスさんは貴族ではありませんわよね?杞憂ではありませんの?」
「そうでもねぇんだよなこれが……。」
きょとんとするカルティアに、レクスは溜め息交じりでコーラルと従兄弟だったことを説明した。
最初は目を丸くしていたカルティアだが、話を聞いていくうちにどんどん口元が上がっていく。
ついにはぱぁっと嬉しそうな表情を見せた。
「なるほど、そういうことでしたのね。うふふ。」
「……何が可笑しいんだよ、カティ。似合わねぇのはわかってるっての。」
「いいえ。レクスさんが貴族の家系ということは、わたくしとの結婚には、誰も文句は言えませんわね。……嬉しいですわ。たとえ違っても傭兵なら問題はなさそうですけれど。」
「ばっ…カティ!まだ恋人ですらねぇだろ!…もうちょっとだけ、待っててくれっての。」
カルティアの発言にレクスは頬を赤くして戸惑いながらカップを持った。
レクスの答えに、カルティアは満足げに微笑む。
その頬も、やはり少し朱が差していた。
熱くなった頬を誤魔化すために、レクスはコーヒーを少し飲む。
苦味が伝わり、少しだけ誤魔化すことが出来たような気がした。
涼しい風が頬を撫で、熱くなった頬を少し冷ます。
レクスはふっと軽く鼻から息を吐くと、少しだけ遠くを見つめるような目に変わった。
「…そういや、ガラムタの野郎の家はどうなった?」
「……アンブラル家は、取り潰しですわね。ガラムタ卿も、地方への流刑が決まっていますわ。これまでに何十人もの奴隷購入の記録があったのです。流刑でも、軽いとは思いますけれど。」
カルティアもふぅと溜め息をつき、少しだけ表情を沈ませた。
「どうしてアンブラル家を気にされますの?」
「……カティになら言ってもいいか。誰にも言わないでくれよ。特にクオンにはな。……ガラムタの野郎は、クオンの父親だ。」
レクスの言葉に、カルティアは目を丸くした。
顔を上げ、レクスの目を見る。
「クオンさんが…ガラムタ卿の娘さん…?」
「ガラムタの奴は知らなかったけどな。ま、知らない方が幸せだろ。……クオンもな。」
「……そうですわね。」
カルティアは目を伏せ、優雅にカップを手に取る。
レクスも目を伏せると、気を抜いたように椅子の背もたれに背を預けた。
心地よい陽差しに加えて、涼しい風がレクスの髪をさらりと撫でる。
目を開けて空を見上げると、青空ではあるものの、ところどころに雲があり、僅かにすっきりとはしない印象があった。
すると、その中に違和感が混ざる。
レクスの耳に「うぅ…」とうめき声のようなものが聞こえてきたのだ。
カルティアの方をちらりとみるが、カルティアはカップを持って、紅茶を飲んでいるだけだ。
「カティ?何か言ったか?」
「いいえ?わたくしは何も…?」
カルティアもレクスの方を見ると、きょとんと首を傾げる。
気の所為かと思いつつ、レクスがハニベアの前を向いた瞬間だった。
”シュン”とレクスの前に、突然人影が現れた。
レクスは即座に立ち上がり、その人影を睨む。
カルティアはいきなりの事に戸惑い、呆然としていた。
目の前に現れた人物は、顔を布で覆った、砂や葉っぱに塗れた黒装束の人物だ。
僅かに覗くアンバーの眼は、焦点が合わず虚ろなようにも見える。
レクスはその人影に見覚えがあった。
「…アオイか?」
その声に反応したのか、黒装束の人物はふらふらとおぼつかない足取りで、レクスの方へ歩み寄る。
まるで酔っているようだ。
「…こ…こわいよぉ。」
黒装束の人物はレクスの目の前に来ると、ふらっと足を滑らせ倒れ込んだ。
慌ててレクスはその人影を抱きかかえる。
「お、おい!?」
「こわいよ…こわいよぉ。…こわいよぉ…。」
弱々しく呟く声に、レクスは急いで黒装束の顔布を剥ぎ取る。
布の下から出てきた顔は、レクスの思った通り、アオイだった。
しかし、何時もとは様子が違う。
カルティアも驚き、口元を押さえる。
アオイの顔は青ざめており、目の焦点も合わず虚ろに何処か明後日の方を見つめている。
ひたすらだらだらと川のように涙を流し続けていた。
ただただ「こわい」と呟くのみで、明らかに普通の状態ではない。
「アオイ!しっかりしろ!」
「こ…こわいの…こわいよ…。」
アオイはやはり正気ではないのか、レクスの呼びかけにも応じない。
ただ同じ言葉を呟き続けるのみだ。
ただ事ではないと思ったカルティアは立ち上がると、すぐさまアオイの手を触る。
カルティアは顔を顰めると、すぐに手を引き、レクスを見やる。
「駄目ですわ!アオイさんの心の中は、大きな恐怖で占められています!何を言っても聞きませんわ!」
カルティアの言葉に、レクスは目を見開く。
抱え込んでいるアオイは心なしか助けを求めるように、レクスの身体に手を回していた。
「何だって!?…どうすりゃいいんだよ!?」
慌てるレクスに、カルティアは顔を伏せて考える。
「…思いつくのは、精神的なショックを与えてみることですわね。消え入りそうに細く、レクスさんへの希望が見えましたわ。レクスさんが感情を揺さぶれば、元に戻るかもしれません。」
「感情を揺さぶれったってよ…。怒らせるとかか?」
レクスは咄嗟に考えるが、アオイを怒らせる行動は即座に思いつかなかった。
焦るレクスにカルティアは思いついたように口を続ける。
「そういったものですわ。あとは……例えばキスをしてみるというものもありますわね。」
「…キスすれば、こわいのなくなる?」
キスという言葉に反応したのか、怯えていたアオイが、ゆっくりとレクスのほうに顔を上げた。
しかし、その表情は先程までと変わりがない。
「アオイ!?しっかりし…!?」
アオイは最後の力を振り絞るように、レクスに顔を寄せる。
そして。
「…んぅ。」
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