狂しき音色
慟哭は何時まで続いただろうか。
暫くするとクオンの喉が枯れ、慟哭が収まった。
だが、それでも乾いた喉からはこひゅう、こひゅうと喘いだような息が漏れ出ていた。
その場に蹲ったクオンは、濡れて染みの拡がったシーツを力なく握り締める。
(わ、わたしは……一体なんで、こんな目に……。)
唐突に揺り戻された感情に、クオンの心は追いついていなかった。
リュウジへの恋心が、一瞬の内にさっぱりと消え去ってしまったのだ。
それは、元々そこに無かったように全てが消え失せてしまった。
「恋心が冷めた」どころの話ではなかった。
嫌なものを無理やり好きと言わされていた、そんな感覚がクオンの頭を占めていた。
(勇者……様になんでわたしはあんな……ことを……? ……嫌ぁ……。嫌なのです……。違う、のです……。)
クオンは首を振って頭を抱え込んだ。
喘ぐように切れ切れな呼吸で、上手く空気を取り込めない。
身体を駆け巡るとめどない気持ちの悪さが、クオンの心を責め苛めていく。
身体を動かそうにも、うち震えている為か動く事もままならない。
「うっ……うあぁ……あぁ……ぁぁ……。」
只管に呻くように、啜り泣く声が病室に響き渡っていた。
起こってしまった現実は、変えようがない。
幾ら嘘で塗り固められた好意だったとしても、起こしてしまった行動に変わりはないのだ。
四人が部屋から去っていった後の音もない静寂が、クオンには現実を突きつけているようにすら思えた。
ダンジョンで、心をすり減らした。
右腕と右眼を喪った。
勇者にいいように扱われ、全てを壊された。
姉代わりの二人にも誤解されて見捨てられた。
挙句の果てには、スキルまで奪われた。
それらはクオンが選んだ末の結果であり、変えられない純然たる事実なのだ。
信じていたものを、全て一瞬で喪った。
クオンでなければあたり散らしたり、恨み憎んだり、果ては復讐すらも考えるかもしれない。
だが、クオンにはその発想は出てこなかった。
それが出て来るのは、思考にまだそれらの選択肢が浮かぶ余裕がある場合でしかない。
そんな発想が出てこないほどに、壊れかけていた。
(……わたし、は……何を信じればいいのです……。)
既に俯き、ベッドシーツに顔を埋めるクオンの翡翠の瞳からは、光が失われつつあった。
だが、一人だけ。
心に引っかかる男性の顔を想起した。
朝焼け空のような橙色の髪と、燃え上がるような灼眼を携えた男性。
ダンジョンで、必死になって自身を助けてくれた人物だった。
濁りかけていた瞳に、光が舞い戻る。
「……にい、さん……。」
はっとクオンは顔を上げた。
息苦しさが、僅かに軽くなる。
先の見えない暗黒の中、一縷の希望のようにさえ思えた。
クオンにとっては不思議なほどに、レクスへの嫌悪感や憎悪も、嘘のように消え去っていた。
ぼんやりとしていた霧が晴れたように、レクスへの想いが溢れ出し始めていた。
「……にい、さんなら……わたし……を……?」
あのスキル鑑定の時まで抱いていたレクスへの大きな感情。
それは霧が晴れた事で、一層明確になったようだった。
レクスの事を考えると、身体が火照ってくるようで。
どくん、どくんと心臓が高鳴る。
心から滲み出てくるような笑顔も、思い出す事が出来た。
クオンに向けられた心からの笑顔を思うと、じんわりと胸の中に火が灯るような熱を、クオンはその身に感じていた。
あの時に抱いていた想いは、幻などではなかった。
それを自覚した途端に、シーツを握り締めていた手が緩む。
「にい、さんなら……わたしを受け入れて……くれるのです……?」
リュウジたちに捨て去られた自分を、レクスならば笑って受け入れてくれる。
そんな希望を抱いて、身体を起こした。
『…さよならなのです。お前みたいなゴミが兄なんて虫唾が走るのです。お前はとっとと死んでしまえばいいです。』
瞬間。
クオン自身の蔑んだ声が、クオンの頭の中で喚きだした。
「……あ……。」
その言葉は、一音一句違わず、間違いなく己が発した声。
それを自覚した途端に、クオンは再び額をシーツの上に落とした。
『私もあの無能なゴミクズを兄と慕っていたのが嫌になります。あの厭らしい視線とあの何とも醜悪な笑顔になぜ私は絆されていたのか全くわからないのです。今すぐに死んでほしいのです。』
『す…すごいのです!何の取り柄もないバカで無能な兄にここまで言ってくださるなんて!やっぱり勇者様はとても聡明なお方なのです。…尊敬するのです…。それに比べてこのゴミみたいな兄は…。』
『お前まだ死んでなかったですか。とっととくたばりやがれです。お父さんやお母さんに迷惑かけないでくださいです。兄気取りの勘違い蛆虫が。』
「あ……あぁ……あ……ぁ……。」
声は、止まない。
クオンの視界が、ぐわんぐわんと揺れ動く。
頭の中に次から次へと湧き上がる、自分自身が口に出した罵倒の声。
思わずクオンは、再び左手で頭を押さえた。
クオンの眼が、大きく見開かれる。
口が半開きになり、震えた息がこぼれ落ちる。
蹲り耳を塞ごうにも、己がレクスへと向けた罵詈雑言は、収まることなくクオンの心を手加減なしに殴りつけるようですらあった。
『何でいるですか。お前が付き纏ってくると鬱陶しいですよゴミ野郎。』
『ゴミの分際で口だけなのです。カルティア様もいつか分かるのはずなのです……。』
『はい。大嫌いなのです。あんなゴミ、二度と目にしたくも無いのです。…今はクラスが同じなので、仕方ないのですけど。』
「ち……ちがう……ちがうの……です。い、やぁ……。」
頭を左手一本で抱え込み、クオンは震える身体を抑え込もうとした。
目をぎゅっと強く閉じ、頭に反響し続ける自身の声に大粒の雫を流す。
自身がレクスに言い放った罵詈雑言を、言ったと認めたくなかった。
だが、無情にも自身が言った言葉だということを思い知らされるように、言った時の記憶はしっかりと刻み込まれていた。
自分自身が、レクスを蔑み拒んだのだ、と。
そう理解させられるのに、時間など僅かでよかった。
(わ……わたしが……にいさんを、拒んだ……。そんな……そんな……嘘、なのです。わたし……が……そんな、こと、言うわけ……ない……の、に。……にいさんは、にいさんは……わ、わたし、の……だい、す……き……な……。あ、あ、あぁ…………。)
クオン自身がレクスを蔑んだ時、レクスはどんな顔をしたのだろうか。
どんな気持ちだったのだろうか。
少なくとも、今の自分と同じだったに違いない。
信頼していた者たちに罵られ、嘲られるのは、生きながら皮を剥がされるような苦痛だっただろう。
何故なら今、クオンはその痛みを自分自身で感じているのだから。
(ご、ごめん、なさい……。ご、めん、なさい……。ご、めん……なさい……。ごめ、ん、なさ、い……。ゆ、ゆる、ゆるし……て、にい、さ……。)
震える身体は収まってくれない。
喉の奥が再び詰まったように、息が苦しかった。
胃の中がひっくり返されるような不快感は、口を開けば中身を洗いざらい戻してしまうだろう。
身体中が痙攣しているような気さえした。
そんな中で、はっと何かに気が付いたようにクオンの眼がぱっと開いた。
濁りきった翡翠色をした瞳の端には、大粒の水滴が溜まり、赤く腫れていた。
『俺の、大切な人たちだ。』
レクスがにぃっと笑いながら、ダンジョンで言った言葉だった。
レクスの仲間が救援が来てくれた際、レクスは気恥ずかしそうに笑っていた。
一人のゴスロリ少女の名前はわからなかったが、もう一人はクオンと同室のアオイだ。
二人とも、クオンから見ても相当の美少女であった。
あの二人が、レクスの「大切なひと」。
その意味がわからないクオンではなかった。
(……もう、わたしの……居場所は……ない……のです……。)
レクスに「大切なひと」がいるという事は、もう自分の居場所はない、ということ。
自ら突き離した先で、レクスは大切なものを手に入れている。
そんな現実を、クオンは思い知らされてしまったのだ。
自覚すると、クオンの中で浮かび上がったのは諦観にも近い感情だった。
(……これは、わたしへの罰なのです。にいさんを嘲って、罵って……ひどい事をした、天罰、なのです。……わたしは……もう、なにも……ないのです。……にいさんに謝っても、手遅れ、なのです……。なんで……わたし……だけ……。)
レクスにしてしまった事は、取り返しなどつくはずもない。
既にクオンは、無力な一人の少女でしかないのだ。
絶望に打ちのめされ、手の中に残ったものは何もない。
そのままの状態で、暫く経っただろうか。
クオンはゆっくりと、顔を伏せたままで上半身を起こした。
ふらふらとした動きは、命のない幽霊が起き上がったようだった。
口元が、大きく吊り上がった。
「ふ……ふ……ふ……。あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。」
大声を上げて、笑いだした。
上を向いて、大口を開けて。
ただひたすらに目を見開いて、狂気を顕にしながら。
不気味な笑い声を上げ続けた。
ただ一人の部屋に反響する笑い声は、感情が籠っていないことを示すかのように虚しく響き、壁や天井を跳ね返る。
クオンは、壊れた。
身体をもがれ、信頼する姉たちに見放された挙句。
その身体は幾度となく、不気味な「勇者」と名乗る男に穢され、「役に立たない醜い奴」と放り出された。
その上、己の武器であったスキルまで奪われた。
芽生えていたはずの恋心も想いも全て「幻想」とかなぐり捨てた結果が、このざまなのだ。
笑っているはずなのに、ぼろぼろと眼から雫は滴り落ちる。
誰のために、何の為にここまで来たのか。
何を得る為に、王都までやって来て学園に入ったのか。
自分自身が、何をしたかったのか。
クオンにはもう、何もわからなかった。
無力感と絶望、喪失感に飲まれ壊れたクオンは、狂うしかなかった。
先に進む標など、何処にも見えない。
己の存在意義すらも、見失ってしまったのだ。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
狂った笑い声をあげるクオンの元に、どたどたと誰かが病室に向かう足音が聴こえた。
「クオンさん! 大丈夫ですか!? クオンさん!」
看護師の声だ。
部屋のすぐ傍まで寄っていた。
どうやらクオンの狂気じみた笑い声に気が付いて、駆けつけて来たらしい。
ドンドンと扉を叩く音が室内に響く。
しかし、クオンは返事をするどころかただ狂ってベッドの上で大粒の涙を流しつつ笑うだけだ。
そんなクオンの脳裏に、言葉が響いた。
それは、旅立つ前にレッドから掛けられた一声だった。
『今のクオンならば、絶対に後悔する羽目になる。』
クオンは、後悔していた。
後悔、してしまった。
今、クオンは全てをもがれた瀕死の雛鳥のようだった。
ただ一人、誰も自分を必要としない、と。
巣立とうと飛び上がったものの地面に叩きつけられ、このまま朽ち果てるのを待つ、空にも羽ばたけない雛鳥。
路端で死にかけている雛鳥など、誰にも見向きなどされないだろう。
何も持たないクオンは、一人ぼっちになってしまった。
今のクオンの姿は、救いの手を求めて鳴きつづける、傷だらけでみすぼらしい一匹の雛鳥にも見えた。
お読みいただき、ありがとうございます。




