眼に映るのは憧れ
青色の髪の少年が椿色の長い髪の少女の手を引き、緑に染まった絨毯のような大地を走っていく。
何かから逃げるように、その顔は必死な形相であり、額に汗まで滲んでいた。
少女は長い髪を風に靡かせ、少年に手を引かれながら緑の草が生い茂る大地を駆ける。
如何にも不安げに少年を見つめる少女だが、少年は気にしている余裕などない。
命の危機が、すぐそこまで迫っていた。
「おい!はやく!」
「わ、わかっていますわ!」
カークとマインは、薄暗い森の木々に隠れながら、草が擦れるのを厭わず走り回っていた。
そこは、アルス村の近くの森林。
魔獣が出てくるために子供は近づいてはならないと、そう言われている場所だった。
息を切らしたカークとマインは、木の裏側に隠れると、カークは木の隙間から後ろを覗く。
視線の先にいたのは、魔獣。
それも小鬼などではない。
人型で、大人すらを超える背丈に、紅を全身に塗ったかのような筋骨隆々の身体。
天を突くような猛々しい二本の額から生えた角に、真っ赤な眼球をぎょろりと覗かせる異形の姿は、カークたちを萎縮させるには十分であった。
「赤鬼」。
それがカークとマインを襲った魔獣の名称だが、カークもマインもその名を知る由もない。
小鬼や魔狼などは見知っているカークなのだが、赤鬼に関しては全く覚えのない、アルス村に襲来したことのない未知の魔獣。
その赤鬼に、二人は追いかけられていた。
木の裏に隠れたマインは、びくびくと震えながらもカークに不安気な視線を飛ばし、蹲っていた。
「ご、ごめんなさい。わたし、の、せいで……。」
涙を浮かべるマインに、カークは首をぶんぶんと振る。
実際、マインが「お花畑に行きたい」とカークに頼み込んだことで、カークがしぶしぶ村の墓地の方向へマインを案内したのだ。
カークにとっては、行き慣れた場所ということもありマインを連れ出したのは墓地を少しだけ逸れた場所の花が多く生え揃った場所。
村の近くであり、魔獣なども出るものでもないと思い花畑にまで向かい、着いたのまでは良かった。
問題が起こったのは、カークたちが帰ろうとした時。
花畑の中に突如として現れた異形に、カークとマインは逃げ惑うしかなかった。
そうして、逃げた先は森の中。
赤鬼もカークとマインに狙いを定めたのか、追って来ている状態であった。
「なくなよ……。だいじょうぶだ。おれがまもってやるから。」
「……ほんと……ですの?」
眦に大粒の雫を浮かべたマインは、ぺたりと座り込んでカークの瞳を覗き込む。
マインを安心させるかのように、カークは肯いた。
「……レクスにいちゃんなら、ぜったいにそういうから。」
「でも……。」
「だいじょうぶだよ。……それにきっと、にいちゃんがきてくれるから。」
「そう……ですの……?」
「うん。ぜったいだよ。……それが、にいちゃんだから。」
怖がらずに笑うカークを見て、マインは目をごしごしと擦る。
カークの顔は、信じきって疑っていないようだった。
そんな中でも、がさがさと草を掻き分け、ぽきぽきと小枝を折る音が近づく。
赤鬼は、未だに目標を失っていないのだ。
「……こっちだ。」
カークがマインの手をぎゅっと握りしめると、マインはそのままカークの腕にしがみつくように抱えこむ。
マインの恐怖心が、カークにも伝わっていた。
それは当然とも言えるだろう。
今この場にいるのは、何の力もない幼子だけなのだから。
カークはゆっくりと身を屈め、赤鬼の視界に入らないようにその場を離れる。
小さな脚で転ばないように慎重に、音すら立てないようにカークは歩く。
これは、アルス村の住人がシルフィに言われている事だった。
戦う力のないものは魔獣に襲われる前に、見つからない事が大事だと。
カークもその言葉を忠実に守るよう、カイナたちから忠告されていた。
マインも恐怖を呑み込むように、カークの後ろをついて歩いていく。
カークに抱きついていると、恐怖が薄れそうな気がしていたのは間違いがない。
頼れる人が誰もおらず、恐怖に耐えながら歩くのはマインにとって耐え難いことでもあったが、カークの存在が大きかったのだ。
マインの心臓がどくどくと動き続けるその音は徐々に速くなり、その分だけカークの腕を抱く力は強くなる。
そんなカークはちらりと後ろへと視線を戻す。
赤鬼はカークたちを見つけられていないようだった。
幼児であり、背が低いカークたちだからこそ、赤鬼の視線が届かないのだ。
ゆっくり、ゆっくり、慎重に。
カークとマインは脚を進めてゆく。
森の中はぎゃあぎゃあと烏とも魔獣ともつかない鳴き声が響き渡る中で、陽の落ちかけた暗がりにさしかかっていた。
前を見ることも難しくなる中で、カークとマインの焦りは募っていく。
「こわい……こわいですのぉ……。」
「……だいじょうぶ。だいじょうぶ。おれが、まもるから……。」
不安感に押しつぶされそうなマインの言葉を背に、カークは言葉を返す。
だがそれは、虚勢の裏返しのように、自身に向けて呟かれたものでもあった。
もう一度後ろを確認すると、紅い体表がやはり目について確認出来る。
こみ上げる命の危機から生まれ出ずる怖さを何とか押し殺すように、カークは前を向いた。
その視線の先には、絶望が佇む。
「ひ、ひぃっ!?」
「あ……ああ……いやぁ……。」
カークは目を見開き、マインは絶望で泣きじゃくりながらへたり込む。
何故ならカークたちの目の前にいたのは、後ろに確認できていた筈の赤鬼。
赤鬼は、ニ体いたのだ。
”ガルゥァァァァァァァァァァァ!”
カークたちの目の前に現れた赤鬼は、カークたちを前に木々を揺さぶるほどの雄叫びを上げる。
(こ……怖いよぉ……!レクスにいちゃん……!)
カークは、逃げ出したくてたまらなかった。
だが後ろにはマインが泣きじゃくりながらぺたりとへたり込んでいる。
カークは逃げない。
逃げてしまっては、いけないと思ってしまったから。
自分の憧れた兄貴分は、泣いている人を見過ごせないと、幼心に見ていたから。
赤鬼が手を広げ大きく振りかぶる。
その指先には、鋭く太い爪が白く浮かぶ。
当たれば、カークはひとたまりもない。
だが、それでも。
後ろにいる可愛い女の子をカークは守りたいと思ってしまった。
「あああああああああああああああ!」
叫びを上げ、腕を拡げる。
後ろの女の子に手出しはさせないと、勇気を振り絞って。
眦には涙を溜め込み、歯を食いしばってカークは鬼の前に立ち塞がる。
そして、鬼の爪は振り下ろされた。
風を引裂きカークに向かう鬼の爪。
惨劇が始まる……かと思われた刹那。
「……カーク!伏せろ!」
聞き馴染みのある声が、カークに届いた。
その言葉に、カークは伏せる。
それは、カークが今最も聞きたかった声でもあった。
スパンと。
カークたちの前、瞬時に割り込んだ人物が、きらめく銀色の刀身を右手で斬り上げる。
カークは顔を上げ、目を見張った。
そこには、襤褸切れのような短いローブが風にふわりとはためいている。
赤鬼の手根は綺麗に両断され、緑の血を噴き上げていた。
ぼとりと落ちる鬼の腕。
赤鬼を、真っ赤に燃え滾る双眸が射貫くように見据える。
はらりと落ちたフードから覗くのは、橙色に染まった髪がふわりと風に靡く。
「……すまねぇ。待たせちまったな。」
その声は、姉がよく惚気を言っていた人物。
その声は、自身が憧れた兄貴分。
その姿は、英雄のようで。
目を、灼かれた。
「……レクス、にいちゃん……。」
待ち望んだ声が、カークの前に降り立った。
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