ひろわれたもの
時は三の月、陽も沈み夜の帳が降り始めた時間帯。
新緑の匂いを運ぶ夜風の中を、獣を驚かすようにがたがたと音を立てながら風の中で荒野を走る、一台の馬車の姿があった。
その馬車は夜に紛れるような黒い塗装で覆われており、堅牢に作られたキャビンからも普通の商用馬車ではないことが明らかだ。
馬車の扉には、とある貴族が使う紋章が刻まれている。
三つの重なった金塊を象った印はアンブラル家の使用している刻印に違いない。
勢いよく走る馬車のキャビンの中には、苛立ったように足をパタパタと鳴らす男性、ガラムタ・アンブラルの姿があった。
スーツからはみ出し、ズボンに乗った醜い腹を揺らしながら、目の前に静かに座る人物を見てため息を吐く。
ガラムタの目の前に座っているのは、既に目の光を失い、ぼおっと翡翠色の瞳で虚空を見つめているシルフィ。
茶色い襤褸切れを纏っているのだが、その腹部は大きく丸みを帯びて膨らんでいる。
シルフィの胎内に、新たな生命が宿っているのだ。
既に臨月とも言えるそんなシルフィの腹部を、ガラムタは忌々しく見つめながら、ちっと舌を打つ。
「くっそう……エルフは妊娠しにくいって話じゃなかったのかよ。騙したのか?あのコウモリ爺……。」
吐き捨てるように呟かれた独り言は、ガラムタの本心を明確に語っていた。
事実、人間以外の種族の女性は同種族以外との行為で子供は出来にくいとされている。
その影響をもろに受けた種族がサキュバスであり、サキュバスは少数ながらも多くの男性で囲うことで、種の存続を成してきた種族であった。
これはエルフやヴァンパイアにも当てはまり、人間とのハーフが出来るのは稀と一般的には言われているのだ。
故に避妊のための光属性魔術など施していない。
だからこそ、ガラムタは焦った。
ガラムタ自身、妻は居ない。
いるのは買い集めた奴隷のみで、子が出来ることを想定していなかったのだ。
子供ができてしまえば、その奴隷を妻として迎え入れなければならないどころか、教育や育児に金を使わねばならない。
それだけならばまだしも、子の出どころを探られてしまえば、アンブラル家は一巻の終わりになってしまうことなど想像に難くない。
グランドキングダムでは、奴隷の売買や所持の一切を禁じており、それを知られるだけで多くのペナルティが課され、貴族の称号すら剥奪されてしまう。
もちろん持っている貴族は他にもいるのだが、バレてしまえば芋づる式にその存在が明るみに出てしまう為、持っている貴族は隠し通すのが実情だ。
わざわざ他の貴族の擁護をして自分も捕まってしまうことを恐れた貴族は、誰もガラムタを庇うことなどしないだろうことは、ガラムタの目にも明らかであった。
苛苛と目をひくつかせるガラムタに対し、シルフィはただただ座り込んだまま。
時折、その膨らんだ腹部を優しく撫でさすっていた。
何故そうしたのかは、シルフィにもわかっていないのだろう。
ただ、そうしたいと無意識にした仕草だからだ。
何処に向かうのかも分からず、シルフィは馬車のキャビンに座り込んで揺られるのみ。
夜闇の中を、馬車が走る音だけが響いていた。
しばらく走ると、馬車は急にがくんと止まる。
その衝撃に、ガラムタもシルフィも、その身を抱えた。
「どうした!?何があった!?」
ガラムタの怒号が御者に飛ぶ。
返って来た声は、びくびくとした恐れを抱いた声だった。
「へ……へぇ、旦那。この先に小鬼の群れが見えやす。……これ以上進むと、あっしらもただじゃ……。」
「いい。突っ込め!」
「旦那、正気ですかい!?」
「……丁度良い囮がいるからな。……ついてるぜ。捨てる手間が省けた。」
御者が素っ頓狂な声を上げるが、ガラムタは強い語気で返す。
その中でちらりと、シルフィの顔を見てにやつくように口角を上げた。
元々、ガラムタはシルフィを何処か人目のつかない場所へ連れて行き、棄て去るつもりだったからだ。
だが、それでは万が一死体が誰かに発見された時や野垂れ死ぬことのなかった場合、奴隷の首輪をつけたままでは足がつくとガラムタは考えていた。
殺害しての遺棄は、ガラムタに取ってもリスクのあり過ぎる選択肢であり、取ることができない。
ましてや自身の手で殺害という行為は、ガラムタにとっても精神的に忌避したかったからだ。
そんな中、魔獣が出てきたことはある意味ガラムタにとって朗報に思うのも当然だった。
『貧乏なエルフの冒険者が魔獣に殺された』
そういったシチュエーションでシルフィを捨てるならば、怪しまれることもない。
むしろ、『身重ながら出稼ぎに出た、王都へ向かう途中で魔獣に襲われた弱小な冒険者』というストーリーで勝手に解釈してくれるだろうと。
ガラムタはそう思い、勝手にほくそ笑んでいた。
そうして、ガラムタは眼前のシルフィに声をかける。
「おい、エルフ。」
「……はい。」
「これを持っとけ。」
「……わかりました。」
ガラムタはぽいと馬車に万が一の装備として備えつけられた剣をシルフィに投げ渡す。
シルフィはただその鞘に入った剣を抱えこむと、意志のこもっていない空虚な視線をガラムタに返すだけだ。
その視線が気に食わないように、ガラムタは「ちっ」と舌を打ちつける。
シルフィの虚無を抱いたその視線を、何処か不気味だとガラムタは常々思っていたのだ。
何故か恐怖感を感じるその視線に、ガラムタはシルフィを買ったことを少し後悔したほどであり、日々の”躾”もこの恐怖感が原因の一部であったことは間違いないだろう。
そうして再び、ガタンとした衝撃と共に馬車が止まる。
眼前まで迫る小鬼の群れに、御者が馬車を停めたのだ。
「旦那ぁ……!もうこれ以上は無理です!引き返しやしょう!」
御者の恐怖で叫ぶ声が、キャビンの内部に響く。
「わかった!少し待て……おい、エルフ!」
「はい。」
「ここに立て!」
ガラムタはおもむろに馬車のドアを開け放つ。
同時にひゅるひゅると冷たい風が、キャビンの中に流れ込んだ。
外からは風の音と共に、ぎゃいぎゃいと魔獣の鳴き声が混じり合う。
シルフィは剣を抱えたまま、漆黒の闇が降りきった虚空を見つめる。
何も思うことのないまま、ただ立てと言われたからそこに立っただけだ。
そうしてシルフィが馬車の入り口に立った瞬間。
「あっ……。」
どん、と。
背中を蹴り飛ばされ、シルフィの身体は宙を舞う。
それと時を同じくして、ガラムタはシルフィの奴隷の首輪を解き放った。
ドサリと、草の上に身を投げ出されたシルフィが身体を叩きつけられたのを確認したガラムタは大声を上げる。
「今だ!出せ!急旋回だ!」
「わかりやした!早くずらかるに限りまさぁ!」
馬車を操る御者は素早く馬を操り、馬車の方向を百八十度転回させる。
「ハイヨー!」
御者がピシャリと鞭を振るい、馬がヒヒンと嘶くと馬車は速度を急に速めて、その場を去る。
すぐに馬車は宵闇の中に消え失せ、残ったのは剣を抱えた身重のシルフィのみになっていた。
痛みを堪え、シルフィはゆっくりと上体を起こす。
「ここ……は……?」
隷属の首輪をつけられてからというものはっきりとしなかったシルフィの意識が、徐々に鮮明に色づいていく。
すぐそこでぎゃいぎゃいと騒ぎ立てる鳴き声に、シルフィはすぐさま小鬼に囲まれていることに気が付いた。
(これは……小鬼!?私は今まで一体何を……?ギルバートは……?)
そうして、シルフィの意識が完全に戻った瞬間。
シルフィの頭に流れ込む、今までの地獄のような日々の記憶。
その身を犯され、好きなように蹂躙された記憶。
見世物にされ、その身を痛めつけられた記憶。
そして……キュエンを救えなかった自責の念。
「あっ……あああ………あっ………。」
その全てが、シルフィの頭の中に流れ込む。
冷たい夜風が肌を濡らす雫を冷やす感覚も、その思いを加速させていた。
(私……は……。)
とめどなく溢れる涙は、留まるところを知らないようにぽろぽろと地に伝いゆく。
そんなシルフィに目をつけた小鬼は、ぎひぎひと鳴き声を上げながら、シルフィに近寄っていた。
その鳴き声は、まるでシルフィを嘲笑うかのよう。
それでもと立ち上がろうとしたとき、シルフィの身体に異変が起こる。
足の間から、水が漏れ出していた。
(何だ……?)
シルフィが疑問に思ったのも束の間。
激しい痛みが、シルフィの身体を駆け巡った。
あまりの激痛に、シルフィは腹部を抱えながらその場に蹲る。
「あっ……がああ……。」
剣は手に持ったままだが、その額には脂汗が流れ落ち、痛みを堪えるようにシルフィは歯を食いしめた。
(い……痛い……痛い……痛いぃぃぃ!?何だ……この痛みは……!?)
シルフィが戸惑うのも当然のことだろう。
ガラムタが蹴り飛ばした衝撃によって、シルフィは破水が起こってしまっていたのだ。
それに伴い陣痛が誘発され、シルフィの身体に痛みが走っているのが原因だった。
出産を経験したことのないシルフィにとっては、未知の痛み。
強烈な鈍い痛みに悶絶するシルフィを、小鬼たちは見逃すはずはない。
このままでは、ガラムタの目論見通りシルフィは野垂れ死に、魔獣の餌になってしまうことは自明の理である。
シルフィは痛みで反撃すら出来ない。
絶対絶命の状況が、そこにはあった。
(ここまで……か。)
ぎひぎひと泣きながら迫る小柄で醜悪な魔獣に、シルフィは死さえ覚悟した。
”ぎゃいい!”と魔獣たちは吠え、獲物に駆ける。
小鬼たちがシルフィに一斉に飛びかかろうとしたそのときだった。
がたがたと何処からか音が地面を伝う。
勢いよく走ってきた一台の馬車が、シルフィの後ろに急停車した。
バンと開け放たれたドアから躍り出たのは、一人の女性。
簡素な服装であるが、小綺麗にまとめた橙色のボブカットの女性が、シルフィの傍に降り立つ。
女性に遅れて飛び出た赤い髪の男性も駆け寄り、シルフィの脇にドンと使い古された茶色い鞄を落とした。
(……?なんだ……?)
状況が読めないシルフィ。
降り立った女性がふぅと息をついてから口を開く。
「……なにをー、しているのかしらー?」
その言葉はゆったりとした口調とは裏腹に、深淵の底から響くような悍ましい咆哮のようにも聞こえた。
女性の声で、歴戦の経験もあるシルフィですら経験したことのない恐ろしさに竦み上がる。
声が響いた瞬間、小鬼たちは慌てたように踵を返すと、一目散にあらぬ方向へと蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
すると、それを確認した赤い髪の男性がシルフィの目と鼻の先まで近寄り、声をかけた。
「大丈夫かい!?何処か痛いところがあるのか!?」
切羽詰まったような男性の声に、シルフィは痛みを堪えつつゆっくりと顔を上げる。
シルフィの翡翠の眼に映るのは、燃え盛るような赤い髪と、輝く紅色の眼を心配そうに揺らした白衣の男性。
それこそが、後のシルフィにとって夫となる男との出会いだった。
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