青天の霹靂
皇暦一四〇五年 七の月 二七分目。
いつもと変わらない朝の眩しい陽射しが、舗装されていない砂利道を照らしつける。
アルス村では朝から自分の畑へと出かけるひとがちょこちょこと見え始める時間帯のことだ。
その日、アルス村の診療所ではいつものように診療開始の準備のため、レッドとマオ、シルフィの三人が軽い掃除を終えたところだった。
診療所に射し込む陽に、レッドのモノクルがきらりと光を反射する。
患者を診察する机の上を片付け終えたレッドが、二人のいる方へと顔を向けた。
「マオ、シルフィ。掃除が済んだら一先ずお茶にしようか。」
「賛成よー。」
「うむ。そうしようか。」
離れた場所に居る二人の、機嫌のいい返事がレッドの耳に届く。
二人は診察待合室の掃除をしているのだ。
返事を聞いたレッドは腰を上げて立ち上がると、色褪せたダイニングテーブルのいつも座る椅子へ歩いて向かう。
レクスやクオンが王都へ出て行ってからというもの、二人のお茶を淹れるのはレッドの日課になっていた。
手慣れたようにポットにお茶の葉を入れて湯を沸かしていると、掃除を終えたマオとシルフィがダイニングに姿を現す。
二人とも、白を基調とした白衣を羽織り、白いキャップをかぶっていた。
戸棚からレッド自身のものを含めて三つのカップを取り出し、ヒュルヒュルと沸騰したお湯をポットに注ぐ。
それらをトレーに乗せて、レッドはテーブルに運んでいった。
「おまたせ。……今日は急患がないといいね。……はい、マオ。」
カップを置いてお茶を注ぎながら、レッドは二人に苦笑を溢した。
「そうねー。みんな、健康が一番よー。……ありがとー、レッドー。」
柔らかく間延びしたように微笑むマオが、レッドから桃色のカップを受け取る。
淹れたばかりのお茶からは、湯気がもうもうと立ちのぼっていた。
そんなお茶をふぅふぅと冷ますマオから、レッドはシルフィに顔を向ける。
「今日は何事もないなんて一日が一番だけどね。……はい、シルフィ。」
「すまんな、レッド。まあ……いつ何があるかは分からんもんさ。私も長く生きているが、「何か」なんて唐突にやって来るものだ。」
ニヤリと口元を上げたシルフィも、レッドからお茶を受け取る。
そんなシルフィに、レッドは少し引き攣った笑みを浮かべた。
「エルフのシルフィが言うと洒落にならないんだけどなぁ……。」
「そうか?……だが、実際はそういうものさ。前触れがある方が珍しい。私の経験ではいつもそうさ。」
シルフィはカップを傾けて熱いお茶を流し込むと、ふぅと息を吐き出す。
レッドも自分の赤いカップにお茶を注ぐと、座り慣れた椅子に腰を下ろした。
湯気の奥の水面に自身の顔を映しながら、レッドもふぅふぅとカップの熱を冷まし、口をつける。
少し呷ると、紅茶の芳醇な香りが鼻に抜け、渋みと苦味のコントラストがレッドの口に広がった。
(……美味しく出来た……とは思うんだけどね。)
レッドはそのお茶の味に少しだけ自嘲するように笑みを浮かべる。
どうもお茶の淹れ具合に満足ができないのだ。
クオンであれば丁度よく淹れてくれただろうと思いながら、レッドは子供たちの顔を頭に思い浮かべる。
その矢先、ぽつんとマオが思いついたように言葉を溢した。
「そういえばレッドー。そろそろ学園はお休みじゃないかしらー?」
「……そういえばそうだね。レクスとクオンが学園に行ってからもう四カ月も経つのか……。」
レッドにとって、レクスとクオンが家を出て行った日は昨日のように思い出せる。
もちろん、片時も二人をのことを忘れることはなかった。
はぁと不安げなため息を漏らし、レッドはカップをテーブルの上に置く。
「元気でいてくれると良いけど……。クオンも、レクスも元気で何もないと良いけれどね。」
「レクスには私が稽古を付けたんだ。龍や鬼ならばともかく、小鬼や犬人程度には負けないとは思っている。……戦場では何があるかはわからないから、確実なことは私には言えないがな。」
レッドの顔を見ながらカップを置くと、シルフィもぽつんと呟く。
やはり我が子を心配しているのか、僅かに瞳が揺らめいていた。
「レクスのこともだが、私にはクオンが心配だ。……腹を痛めて産んだ子だということもあるが、クオンは戦いを知らない娘だ。私自身が避けさせた面もあるがな……。クオンは進んで戦いをする性格ではない。今のクオンには私が言って、聞くかどうかも怪しいがな。」
「シルフィ……。」
憂いた顔でため息を溢すシルフィは、肩を落として何処か小さくレッドには見えた。
しかし、そんな沈んだ空気を呑気そうな声が打ち破る。
「多分大丈夫よー。何かあっても、レクスがなんとかしてくれるわー。」
ぽわぽわとしたマオの声。
その声に合わせ、二人ともマオを見つめた。
「マオ、そうは言っても……。」
「そんな沈んだ顔しないのーレッドー。レクスはしっかりとできる子よー。レッドに似てるものー。」
「だが、今のクオンがそれを素直に受け取るか……?」
「大丈夫よーシルフィー。レクスはそんなに薄情じゃないものー。……むしろ、あの子は私たち以上にクオンやカレンちゃん、リナちゃんも心配してるはずよー。」
心配そうに顔を顰めた二人に、マオはぽわぽわとした微笑みを浮かべてカップを置いた。
「あの子は誰も見捨てるなんてできない子よー。たとえ何があっても、皆を守ってくれる強い子よー。それは、わたしたちが一番わかっているんじゃないかしらー?」
ぽわぽわと間延びした声。
しかし芯のあるマオの声は、はっきりとレッドには伝わっていた。
それはシルフィも同じようで、その翡翠の瞳を嬉しそうに細めながら口元を上げる。
「……そうだな。レクスは強い子だ。少なくともこの私が認めているからな。……女性の好意に疎いところはあるかも知れんが。」
シルフィが何処か遠くを見つめるように顔を上げると、くすりと苦笑を漏らした。
事実、スキル鑑定の前まではリナやカレン、クオンの好意はシルフィにすら丸見えだったのだから。
「あらー大丈夫よー。「お嫁さんいっぱい連れて帰る」って約束したものー。もうそろそろ学園の夏季休業で帰省してくるんじゃないかしらー?」
「ははは。マオ、さすがに半年もたっていないのに沢山は連れて帰らないんじゃないかな?」
「そうかしらー?だって、私とレッドの子よー?あなたにそっくりなところもあるものー。きっと連れて帰るわー。」
「レクスのことだから帰っては来るだろうけどね。いつ帰って来てもおかしくはないけど。……さて、開業しようか。」
マオの言葉を「さすがにない」と笑い飛ばすレッドが立ち上がったその時。
コンコンとノックの乾いた音が、静かな診療所に響く。
「さて……早速お客さんかな?ちょっと出てくるよ。」
レッドは立ち上がると、白衣を揺らし、両手をポケットに詰め込みながら入り口に歩いて向かう。
歩いている間もコンコンとノックの音は続いていた。
「はいはい。今開けるからね。」
いつも通り患者だと思ったレッドは、にこやかな顔を浮かべて何気なく扉を開ける。
そこに立っていたのは。
「……親父、ただいま。」
「レクス!?」
にぃっと笑みを浮かべながら黒い襤褸切れのようなローブに身を包んだレクスがそこにいた。
レッドが目を見開くと、その後ろには四人の見目麗しい美少女が並んでいることに気が付く。
「レクスさんのお父様……確かに面影がありますわね。」
「…うん。…目元とかそっくり。」
「レクスくんのおとうさん、やさしそうな人だね。」
「あれが……レクス様のお父様です?思ってたより意外と普通の人です。」
女子たちはこそこそと呟きながらレッドを見つめる。
中でも水色の髪をした白い人形のような衣装の女の子は、レッドを興味深そうに注視していた。
しかし、レッドは女の子たちに疑問を持ったり、気にする余裕はなかった。
居るはずのない人物に、心臓が跳ね、息を呑んだ。
レッドの眼はレクスたちよりさらに後ろにいた人物を見つめて固まる。
目が大きく見開かれたのは、その衝撃の大きさを如実に表していた。
それは、レッド自身が避けていた人物でもあったから。
その赤い髪と赤い瞳を見まごう訳もない。
「……元気だったか?レッド。」
「……父……さん。母さんも。……何でここに……?」
レッドの父親であるブラックの赤い瞳が、驚きに満ちたレッドの顔を映す。
彼は、難しい表情を浮かべてレッドをまっすぐ見つめていた。
お読みいただき、ありがとうございます。




