やわらかな鼓動
どことなく頬をくすぐるようなこそばゆさを感じ、水面に浮かび上がるようにレクスは意識を目覚めさせる。
(……あ、俺……カティの前で寝ちまったのか……。)
射し込む眩しさにレクスがパチリと目を開けると、眼の前にはカルティアの整った顔が目と鼻の先だ。
目を閉じてすぅすぅと規則正しい寝息がレクスに当たるほどの距離。
頭には布越しの草のゴワゴワとした感触が伝わる。
「いっ……カティ?」
レクスは驚きで眼を見開く。
どうやらカルティアも、いつの間にかレクスの正面に寝転がり眠っていたようだ。
長い睫毛にぷるりと艶かしく光る唇、シルクのようにきめ細かい白磁のような肌。
その美しくも可愛らしい、彫像のような顔にレクスは頬を染めて息を呑む。
レクスの声に気が付いたのか、カルティアがゆっくりとアイスブルーの瞳を外気に曝け出す。
瞳の中にレクスの驚いた顔を映すと、クスクスと可笑しそうに口元を緩めた。
「うふふ。ずいぶん気持ちよさそうでしたので、わたくしもご一緒させていただきましたわ。」
「少しびっくりしちまったぞ……カティ。」
頬を染めるレクスにカルティアは寝転んだまま、ゆっくりと腕を伸ばす。
腕をレクスにしなだれかかるように添わせると、カルティアはずいっとレクスに身体を寄せた。
「か、カティ……?」
手を伸ばすどころか互いの息を感じる距離。
レクスの胸板にはカルティアの立派な胸が押し付けられ、むにゅんと形を変えている。
その距離と柔らかさに、レクスの鼓動は高鳴るばかりだ。
そんなレクスを満足そうに見つめながら、カルティアは灼熱の紅眼に自身の氷青の眼を合わせる。
「……レクスさん。わたくしはあなたをお慕いしていますわ。……今、何をされても構わないくらいに。」
眼を揺らすレクスをよそに、レクスの手を優しく掴むと、自身の胸元へ運ぶ。
そのまま、レクスの掌を自身の胸の谷間へと埋めた。
「お、おい!カティ……!」
わなわなと驚愕に唇を震わせるレクスに、カルティアは聖母のような微笑みを向ける。
どくんどくんと激しく脈打つ自身の血流を感じ取るレクス。
「……レクスさん、感じて欲しいですわ。わたくしの鼓動を。」
カルティアが静かに呟く。
柔らかい感触に包まれたレクスの掌の中には、確かに高鳴るカルティアの命の音が感じられた。
今も命を刻む鼓動。
そうして、カルティアはレクスに優しく微笑む。
「わたくしは、不安ですのよ。……いつか、レクスさんが遠くに行ってしまうような、そんな気がずっとしているのですわ。」
アイスブルーの瞳はレクスをまっすぐ見つめている。
その声色は、真剣にレクスを心配しているように感じられた。
「カティ……。」
「レクスさんがわたくしたちを置いて、何処か遠くへ行ってしまうようなら、わたくしはあなたにこの身を捧げてでも、レクスさんを引き留めますわ。……ですから、レクスさん。わたくしたちに何も言わず、遠くへいかないでくださいな。」
「……なんで、俺のためにそこまで……。」
レクスが呟いた瞬間、レクスの腕を抱え込むカルティアの力が僅かに強くなる。
「……わたくしのこの鼓動は、あなたに守られたものですわ。あなたに鮮やかな色を魅せられて、あなたにこの鼓動を守られましたの。……レクスさんのせいですわよ?わたくしをこうまで狂わせた責任、しっかりと刻んでいただかないといけませんもの。」
カルティアの眦は、うっすらと滲んでいるようにレクスには見えて。
レクスはため息を吐きながらも、カルティアの胸元から手をゆっくりと引き抜いた。
そのままカルティアの背中に手を回し、何処か嬉しそうに口元を上げながらもその眼はまっすぐカルティアを見ている。
「俺は、まだカルティアをもらうなんてできねぇ。……でも、約束はするさ。俺は、カティにも、アオイにも、マリエナにも、レインにも。誰に何も言わずいなくなったりしねぇってよ。大丈夫だ……って言っても、信じられねぇか……?」
レクスがおそるおそるカルティアに声をかけ、その身を優しく抱きしめる。
「……では……誓いのキスをしてほしいですわ……。」
カルティアは輝く氷青の瞳をレクスに向ける。
それは冀うように、眼はレクスへと媚ぶようにも見えて、レクスは僅かに心の中でたじろぐ。
(カティ……俺は……。)
ぷるりと艶めくピンク色の唇が、僅かに震えている。
カルティアがゆっくりと眼を伏せた。
レクスはごくんと息を呑む。
(……こんな俺で、ごめんな。カティ。)
カルティアのみずみずしい唇に覆い被さるように、唇を奪った。
「……ん。……ちゅ……。」
身体全体に伝わるカルティアの柔らかさと、唇の受け止めるような弾力。
それでいてカルティアもレクスの背中に手を回し、離れないようにと抱え込む。
ふわりと匂うのは華やぐような甘く、すっきりとした柑橘の香り。
時間にすれば十秒にも満たない。
二人はどちらからともなく、自然とそうするように唇を離した。
ぽぉっと頬を染め、瞳を潤わせるカルティアの僅かに開いた口元からは熱っぽく甘い吐息が漏れ出ている。
そんなカルティアをしっかりと見つめながら、レクスは口を開いた。
「……ごめんな、カティ。俺はカティの思うようなできる人間じゃねぇし、皆から想われててもあいつらのことが忘れられないろくでなしだ。……でも、俺は皆が幸せでいて欲しいし、離したくもねぇ。だから、これだけは言わせてくれ。」
レクスの眼差しに、カルティアは無言でこくんと頷く。
「……その時を、待っててくれ。その時までは、俺は誰とも”そういうこと”はしねぇ。……だけどよ。」
レクスは絶対に視線を離すことはしないとばかりに、カルティアの瞳をまっすぐ射抜く。
「”俺は皆を幸せにする”……この言葉は、破らねぇ。……それだけは覚えておいてくれよ。……カティ。」
「……ええ。他ならぬレクスさんの頼みですもの。……それに……。」
「……それに?」
カルティアはニヤリといたずらっぽく、しかし妖しげに口元を上げた。
「”言質”は取りましたわ。……これでレクスさんは、わたくしたちから逃げられませんわね。」
「……図ったな、カティ。……元々逃げるつもりもねぇけどよ。全く……とんだ王女様じゃねぇか。」
「はい。わたくし、”悪い子”ですもの……ふふふ。」
レクスとカルティアはどちらも寝転んだままで顔を見合わせ、クスクスと笑い出す。
しかし、二人は互いにわかっていた。
”その誓いは、共に重く、破られることはない”と。
そんな二人を、傾いた夕陽が紅く照らし出していた。
◆
その僅か後、二人はシートをささっと片付けた後、帰路を戻ってゆく。
こつこつとレクスの足の裏に伝わる、石畳の冷たい二人だけの音が響く中。
まだ頬を染めているレクスは気恥ずかしそうにカルティアからそっぽを向いているが、カルティアはにこにこと満足そうに笑みを浮かべながら、レクスの手を再びその胸に抱え込んでいた。
ふにゅんとした感触が腕に伝わり、レクスの心音は相変わらず速いままだ。
「な……なぁ、カティ?……俺、とんでもねぇくらい恥ずかしいことを誓っちまったような気がするんだけどよ……。」
「ええ。それは間違っていませんわよ。レクスさんがわたくしたちとの未来を受け入れるといった誓いは、しっかりわたくしの胸に刻み込まれましたもの。……撤回は、させませんわよ?」
「……破るつもりも、撤回するつもりもねぇけどよ。……なんつーか……小っ恥ずかしくなっちまって……。」
「うふふふ。わたくしはこの耳でしかと聞きましたわ。レクスさんの誓いを、わたくしは絶対に忘れませんわよ。」
勝ち誇ったように機嫌のいいカルティアに対し、レクスは苦笑いを浮かべて小さなため息を吐く。
レクスは否定するつもりもないからだ。
(……カティも、皆も。……あいつらでも。……俺はやるべきことをきちんとしなきゃならねぇな。…俺の為にも、皆の為でもよ。)
そんな思いを脳裏に浮かべ、レクスは歩いたままでその双眸を隣のカルティアに向ける。
「……なぁ、カティ。」
「どうなさいましたの?レクスさん。」
レクスの腕を抱え込んだままのカルティアは、上目遣いにレクスの瞳を見上げる。
「……今、カティは幸せか?」
レクスの問いにカルティアは一瞬きょとんとした顔を浮かべるが、その表情はすぐに嬉しそうなそれに変わり、こくんと大きく頷いた。
「ええ!……とても幸せですわ!」
にこやかな表情に、レクスもつられて微笑む。
少なくともここに、レクスが守り抜いた鼓動が、隣で幸せそうに笑っていること。
その事実が、レクスにはとても嬉しかった。
そんな二人を見守るように、二人の影は傾いた陽によって、長くまっすぐに伸び、一つに重なっていた。
◆
自室に戻ったレクスはすぐさま、朝作業していた机へと座り直す。
アランはまだ帰ってきていないのか、レクスの足音だけが部屋の中に響いていた。
そのままレクスは朝に作業していた四つの小物を引き出しから取り出して机の上に開け放つ。
四つの小物をまじまじと、どこかにやついた様子で眺めながら、ふぅとため息をついた。
「……さて、言ったからには早く仕上げねぇとな。皆に渡さねぇといけねぇ。」
レクスは気合いを込めるように、机から引き出したあるものを手慣れたように握る。
夜も更けて行く中で、レクスの机の上だけは煌々と明かりが照りつけ、一心不乱にレクスは手を動かす。
そんなレクスを、月明かりは微笑みを浮かべたように見つめていた。
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