憧れの王子様
「……あれ?ここはどこ……?」
瞼の裏から感じ取る柔らかな光に、マリエナはゆっくりと瞼を開く。
目に飛び込んできたのは、見覚えのある天井。
そしてマリエナを覗き込むように見つめるのは、メイド服を着て青銅の瞳をした少女と、燃える紅の眼をした愛する人。
二人がマリエナを見つめていた。
「あ、起きたです。大丈夫ですか?マリエナかいちょー。」
「ふぅ……よかった。どうなることかと思ったぞ……。」
「レインちゃん?レクスくん?」
安堵した息を吐きながら顔を離す二人に、マリエナはガバっと上半身を起こす。
マリエナはきょろきょろとあたりを見回すと、そこには見慣れた木の本棚に自身が集めていたぬいぐるみの数々、そしてベッドの上で寄り添うように眠るビッくんの姿があった。
そこは、屋敷のマリエナの部屋だ。
戸惑いながらもマリエナは何が起こったのかを思い出す。
(……あれ?私、レクスくんに吸精させて貰ってから……どうなったんだろう?凄く気持ちよかったけど……。)
レクスとのキスの記憶を蘇えらせ、頬を染めるマリエナを見て、レインはふぅとため息を吐くと部屋の入り口に向かって踵を返す。
人形のように整った顔をレクスに向け、小さく笑いながら口を開いた。
「あちしはアーミア様をお呼びするです。」
「ああ、頼んだ。ごめんな、レイン。」
レクスの言葉にレインは静かに首を振る。
「レクス様が気にする必要はないです。あちしはアーミア様とレクス様にお仕えしてるですから。」
ふふと笑ったレインはドアを引き、マリエナの寝室から出ていくと、ゆっくりドアが閉まった。
すると、レクスがマリエナのベッドの傍まで近寄り、ベッドの上に腰を下ろす。
そして、マリエナに小さく微笑みを向けた。
「いやぁ……よかった。マリエナが倒れ込んだときはどうしようかと思ったぞ。」
「え……わたし、倒れちゃったの?」
「ああ。……俺とキスした直後によ。あんときゃびっくりしちまった。」
そう語るレクスにマリエナは眼を丸くしていた。
自身が倒れたことが、信じられなかったのだ。
「ご、ごめんね……。レクスくん。レクスくんがここまで運んでくれたの?」
「ああ、ちょうど生徒会の皆が入ってきたからよ。ちょっと驚かれちまったけど、レインに手伝って貰ってここに運んだんだ。」
「そ、そう……だったんだ。ありがと……ね。」
「眼の前でマリエナが倒れ込んだんだ。当たり前だっての。」
そう言って優しく微笑みを返すレクスに何処か申し訳なくなって、マリエナは少し俯く。
レクスもマリエナから顔を逸らし、そのままふっと上を向いた。
どことなく気まずいような、それでいて居心地は悪くない不思議な静寂が幼い頃から使っている部屋を包み込む。
そんな中、マリエナはぽつりと言葉を発した。
「……レクスくん、本当にごめんね…。わたしが気を失っちゃったばっかりにデート……台無しになっちゃって……。」
「……そんなことはねぇよ。マリエナ。」
「え?」
マリエナが顔を上げると、レクスがマリエナに顔を向け、にぃっと笑った。
「今日は仕方ねぇだろ。たまたまマリエナの具合が悪かっただけだ。またデートすりゃいいさ。……俺としちゃ、マリエナが楽しめたかどうかが気掛かりだっての。……どうだったよ?今日のデートは。」
「……わたしは、すっごく楽しかった!ずっと行きたかった劇場で、好きな絵本の演劇をレクスくんと楽しめたから。」
僅かに考えたあとに、嬉しそうに笑うマリエナ。
そんなマリエナを瞳に映して、レクスはふぅと胸をなで下ろした。
「そうかよ。それを聞いて安心した。俺とのデートがつまんねぇって言われたらどうしようかと思ったしよ。」
「そ、そんなことないよ!わたしは……レクスくんとあの演劇が見たかったんだから!」
安堵しているレクスに、マリエナは紅い顔でずいっと身体を寄せる。
そんなマリエナの表情に、レクスは不意をつかれたように眼を見張った。
「わたしね……あの演劇の原作になった絵本が大好きなの。あの絵本に小さい頃に感動して……ずっと好きだったから。だから、あの絵本が演劇になるって聞いて、ずっと見に行ってみたかったの。だからレクスくんと観に行けて、すごく嬉しかった。……あんなことになっちゃうとは、思ってもなかったけど。」
小さく苦笑するマリエナに、レクスはつられてか口角を少し上げていた。
「お礼を言うのは俺の方だっての。……俺も、あの演劇が好きになっちまったからよ。」
「え?レクスくんも?」
「ああ。俺もあの王子様みてぇに、大切な人を助けられる奴に憧れちまったしよ。……どうも、あの王子様が他人みてぇに思えなくってな。良けりゃ、また観に行くか。……マリエナも一緒によ。」
「レクスくん……。うん!」
レクスが優しく歯を出して笑みを浮かべると、マリエナも嬉しそうに頷いた。
そうして二人が笑っていると、コンコンとノックの音が室内に響く。
「アーミア様をお連れしたです。」
「う……うん。入っていいよ。」
聞こえてきたのはレインの声。
マリエナが応答するのとほぼ同時、ドアが開いてレインとアーミアが室内に入る。
レインに連れられたアーミアは、僅かに焦った様子でマリエナを見つめる。
ベッドから上体を起こしたマリエナの顔をみるやいなや、アーミアはほっと息をついた。
そのままアーミアはたおやかな様子でマリエナの傍へと歩み寄る。
心配していたような顔を向け、仕方ないように苦笑していた。
「マリエナ。レクスさんから聞いたわよ。あなた、吸精の後に倒れたそうじゃない。」
「う、うん…。ごめんね、おかあさん。心配かけて……。」
「謝るならレクスさんとレインちゃんにもしなさいな。二人ともずっとマリエナに付き添っていたんだもの。」
アーミアの言葉にマリエナは申し訳なさそうに俯き、レクスとレインを交互にちらりと見る。
そんなマリエナに向けて、アーミアは言葉を重ねた。
「……あなたが倒れたのは、急激な吸精に身体がびっくりしてしまったからだと思うわ。いきなり吸いすぎたのね。……普通、キス程度で吸える量は限られるのだけれど。」
「え……?……そうなの?おかあさん。」
顔を上げたマリエナの眼をじっと見ながら、アーミアはゆっくりと頷いた。
「「サキュバスベーゼ」の相手からの吸精は効率がいいとは聞いたことがあるわ。だから思わず吸いすぎてしまったのね。……今日はもう休みなさい。」
「はい。……おかあさん……。」
「デートはまたの機会になさいな。そんな落ち込まなくて大丈夫よ。レクスさんはいつでも付き合ってくれるわ。……ね?」
しょんぼりとした様子のマリエナに、アーミアは優しく目元を下げると、レクスに向けて目配せをする。
レクスもそんなアーミアに合わせ、にかっとした笑みを浮かべた。
「ああ。……また行こうな、マリエナ。今度は気をつけりゃいいだけだろ?俺はマリエナに楽しんで欲しいからよ。」
「レクス……くん。……うん。わかった。今日はごめんね。」
「マリエナが謝る必要はねぇよ。」
「え?」
「むしろ、俺が感謝する方だっての。……ありがとうな、マリエナ。」
眼を見張るマリエナに、レクスはにこやかに笑うとベッドから立ち上がる。
マリエナも「うん!」と満面の笑みをこぼし、二人で笑いあっていた。
そんな二人を仕方なさそうに見つめるアーミアと、何処かむすっとしたようなレイン。
アーミアはコホンと咳払いをすると、レインに向き直って声をかける。
「レインちゃん。レクスさんを玄関まで送り届けてね。……何なら、一緒に学園まで帰って良いわよ。」
「わかったです。……さあ、行くですレクス様。」
レインが何処か強く返答を返すと、レクスの方に向かって歩み寄る。
そして、むんずとレクスの腕をその身に抱き、少し嫉妬してか不満そうに見上げた。
レインのしっかりと主張する胸の感触にレクスは頬を染めてたじろぐ。
「行くです。レクス様。……マリエナかいちょーもまたです。」
「お、おう。またな、マリエナ。」
「……う、うん。またね、レクスくん、レインちゃん。……ありがとう、二人とも。」
レインに腕引かれるように、レクスが部屋を出ていくところを、マリエナは柔らかく微笑みながら見送った。
するとアーミアはふぅと息を吐きながら、マリエナのベッドに腰掛けてマリエナに振り向いた。
その表情は柔らかいが、目だけは真剣なもの。
そんなアーミアの様子に、マリエナは首を傾げる。
「どうしたの?おかあさん……?」
「マリエナ。初めての吸精はどうだったのかしら?」
「え……えっと。……凄く、きもちよかった。とっても甘くて、きゅんきゅんして……お、おかしく……なっちゃいそうだった。」
マリエナがレクスとの吸精を思い出し、頬を染めてもじもじと身体を揺らしながら言葉に出す。
そんな姿に、アーミアは一瞬目を丸くしたが、すぐさま苦笑していた。
「お、おかあさん!笑わないでよ!」
「ごめんなさいね。マリエナ。別に可笑しくて笑っているわけではないのよ?……ただ、予想通りだと思っただけ。」
怒ったようなマリエナの声に、アーミアは表情を変えず、マリエナの眼を見据えた。
「マリエナ。」
「な、何?おかあさん。」
「あなたの吸精は、レクスさんだからできることね。……誰も傷つかない吸精なんて、本当に「運命」かしらね。」
「どういう……こと?」
きょとんと何もわからないように首を傾げるマリエナ。
アーミアは知っているのだ。
マリエナがキスで気絶するほどに吸精出来たということは、一般人であれば即瀕死状態になるほどに魔力を急激に吸っているということを。
それに何食わぬ顔で耐えたレクスも相当だとアーミアは思っていた。
(本当、マリエナのために……いいえ。サキュバスのためにいるような人じゃない。そんな人があなたの運命なんて、すごく贅沢なこと。……わかって……いないわよね。)
心の中でくすくすと笑いつつ、マリエナの吸精についてアーミアは口には出さないと決めた。
言ったところで、マリエナがまた要らぬ苦悩を抱えてしまうだけだとわかっていたから。
「なんでもないわ」と首を横に振るアーミアだが、すぐにその表情が悪戯っぽい笑みに変わる。
マリエナの耳に近づき、ぼそりと囁いた。
「……《《はじめて》》のときは覚悟なさい。レクスさんは相当の《《腕前》》よ。レクスさんは気がついていないでしょうけど。間違いなく、あなた……朝までずっと、啼かされるわよ?」
急にアーミアから言われた発言に、マリエナは眼を白黒させ、瞬時に顔が真っ赤に染まりきった。
布団をぎゅっと握り込み、マリエナはアーミアに尋ねる。
「ど……どど……どういうことかな!?おかあさん!?」
「うふふ。それはね……。」
アーミアがいたずらっぽい笑みで耳打ちをすると、マリエナの頭からボンっと沸騰したように、湯気が湧き上がる。
「レ……レクスくんって、そんなにすごいの……?」
アーミアは何も言わず、微笑みながらコクリと頭を縦に振った。
その時、マリエナの淫魔紋が淡いピンク色に輝きを放っていたが、誰にも気づかれることはなかった。
◆
翌日一日、マリエナはレクスの顔を真正面から見ることができなくなってしまったこと、そしてレクスとマリエナの二人が生徒会のメンバーに呼び出され、根掘り葉掘り問いただされたのは、また別のお話。
お読みいただき、ありがとうございます。




