吸精
マリエナの頼みに、レクスは眼を大きく見開いた。
蕩けたピンクの瞳に戸惑ったままのレクスだが、それでもただごとではないと思い、マリエナにささやくように声をかける。
「……大丈夫なのか?」
「……うん。まだ、大丈夫。演劇を見終わってから、ずっと我慢してたの。……ごめんね。レクスくん。こんなこと言っちゃって……。」
マリエナは申し訳なさそうに呟き、ぎゅうとレクスを抱く力を強くする。
そんなマリエナがレクスには苦しそうに、抗っているようにも見え、マリエナを受け止めるように背中に手を回し抱いた。
”怖がっている”マリエナを安心させるように。
マリエナに触れた掌に、どくんどくんとマリエナの熱が伝わる。
レクスは深く息を吸うと、大きく息を吐き出しマリエナの瞳を改めて見つめ返した。
そのとろんとした瞳の奥には、どこか不安そうな光がレクスには見えたように感じた。
すると、唐突にレクスの頭の中へアーミアの言葉が蘇る。
『うちの娘とレインちゃん。いつでも襲っちゃっていいから。』
(……”まだ”、恋人でもねぇのに「そういうこと」はできねぇよ。アーミアさん。……マリエナを傷つけちまうからな。)
レクスは僅かに頭を振り、アーミアの言葉を振り払う。
「……レクス、くん?」
「……”まだ”、「そういうこと」はできねぇ。……だから……確か吸精は、キスでもいいよな?」
マリエナの瞳をまっすぐ見つめる真剣な紅い眼に、マリエナはコクンと頷く。
「……うん。わたしも……カルティアちゃんたちに言われてるから。……レクスくんに、キスを頼もうと思ってたの。」
ぽつりと返された言葉に、レクスはほっとすると、困ったように微笑む。
「そうかよ。……でも、「そういうこと」はできねぇけど……遠慮しねぇで言ってくれよ?」
「え?レクスくん……?」
「俺はマリエナが悲しんでるところも、辛そうに苦しがってるのも見たかねぇんだ。だから、俺にできることをやるだけだ。……まあ、それは皆に言えることだけどよ。」
そう呟くと、レクスは艶っぽく瞳を見上げるマリエナの腰に手を回し、くるりとマリエナを抱え上げた。
いわゆるお姫様抱っこの体勢になったマリエナは、一瞬のことに眼を丸くする。
戸惑った紅い林檎を安心させるように、レクスは柔らかく笑む。
「……マリエナ。どこに行きたいか、僕に教えてくれないか。」
いつもとは異なる、劇中の王子様めいた口調。
マリエナは眼を奪われたように、うっとりとした眼を向けて、ぼそりと言葉を口にした。
「……生徒会室。」
「わかった。……行こうか、マリエナ。」
レクスはマリエナを抱え、ぐっと足を踏み込む。
熱された硬い石畳の感触を靴越しに感じながら、レクスは地面を蹴って駆け出した。
「ひゃっ……」
マリエナの可愛らしい悲鳴を耳に、レクスは前に進む。
燕尾服の男性がドレスの女性を運ぶ光景に、周りの人々はちらちらと奇異の眼を向けてくるが、レクスは全く気にも留めない。
マリエナのために走るレクスは、マリエナの希望を叶えるために。
学園への道を、疾風のように駆け抜けた。
◆
照りつけるような陽の光の下を、硬い足音を響かせながら、学園の校門を勢いよく飛び込むように駆けぬけたレクスたちは、だっと風を切り校舎へ走り入る。
どくんどくんと伝わる心音を振り切るように、頬に当たる涼やかな風が、熱くなった皮ふを冷ます。
マリエナの頭にいるビッくんはじぃっとマリエナの角にぶら下がるように掴まっていた。
驚いたような守衛にはちらりと一瞥し苦笑しながらも走り抜ける。
傭兵ギルドから帰って来るときにレクスは偶に話をするため、レクスは顔パスに近い存在になっている。
幸いにも夏季休業中だからか、学園内に人は殆ど見当たらず、校舎内だと尚更だ。
そのまま階段を勢いよく駆け上がると、目的の生徒会室が見えた。
「マリエナ!今生徒会室には誰かいるか!?」
「ご……午後は誰もいない……筈。」
「わかった!あと少しだ!」
ぎゃりりと足裏の摩擦で走る勢いを抑え込むと、生徒会室の扉にレクスは手を掛け、ガラッと勢いよく引き戸を開け放った。
照りつける陽射しがふわりと揺れるカーテンの隙間から射し込む生徒会室。
そこにはマリエナの言う通り誰も居らず、机と椅子は綺麗に整理されて並んでいた。
レクスはマリエナを優しく立たせると、きょろきょろと廊下を見回し、誰もいないことを確かめてから扉を閉めた。
ふうとレクスは落ち着いて扉を背にし一息吐くと、前に立つマリエナを見やる。
マリエナはやはり紅い顔ではぁはぁと荒い呼吸をしながらも、何処か艶っぽいような目線でレクスを見ている。
頭の上のビッくんは「ビィ……」と心配するようにマリエナを見ていた。
「……本当に大丈夫か?マリエナ?」
「……ごめんね…。わたしのせいで……。」
「気にすんな。……マリエナのせいじゃねぇよ。」
やはり眼が蕩けきり、潤んだ様子のマリエナは何処か「発情」しているようだ。
そんなマリエナを気丈に、真剣に見つめるレクスだが、その内心、頭を悩ませていた。
(……やべぇな。……このあとどうすりゃいいんだ……?)
マリエナの言う通り生徒会室に連れてきたは良いものの、レクスはこのあとの「キス」をよく考えていなかったのだ。
(ま……マリエナにキスって……どう誘えばいいんだ!?)
レクスは考えれば考える程に、頬を染めていく。
心音もだんだんとけたたましく身体に響き始めていた。
レクス自身、キスをされたことはあるのだが、キスを自ら行なったことはない。
そして、ふぅと自身の覚悟を決めるように息を吐き出す。
思い起こしたのは、いつだったかカレンが読んでいた恋愛小説。
その小説を不意に覗き込んだ一節にあった描写で、カレンはうっとりとしていたような記憶があった。
「……マリエナ、そこの壁に立ってくれるか?」
「……う、うん?わかったよ。」
何かを期待するような、しかし若干戸惑ったようなマリエナはレクスの言う通り壁際を背にして立つ。
「……悪ぃな。嫌だったら跳ねのけてくれよ。」
レクスは真剣な目つきでマリエナを見据える。
マリエナは期待するように蕩けきった眼で、ゆっくりコクンと頷いた。
そうして、レクスはマリエナに正面から近づく。
一歩。また一歩。
マリエナの眼の前に立った瞬間。
”ドン”という音と共に、マリエナの顔の真横に手を付いた。
急な音とレクスの行動に、マリエナはビクリと身体を震わせ眼を見張る。
「レ……レクスく……ん?」
真っ赤な顔で、ドキドキとした心音がマリエナから伝わってきそうな距離。
震えた息づかいに、花の蜜のような匂いがレクスの鼻をくすぐる。
ゴクリと息をのむ音。
レクスは付いた反対の手でマリエナの整った顎を人差し指に載せ、こわれものを扱うように優しく持ち上げた。
「ひゃ……ひゃわわ……。」
マリエナの艶めくように濡れた唇が震える。
既にマリエナは沸騰寸前のように顔を染めきっていた。
しかし、レクスは止まらない。
そして。
「……ちゅっ……」
レクスとマリエナの唇が、一つに重なった。
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