二枚の羊皮紙
「もう!おかあさんったら……!」
少し赤い頬を僅かに膨らませ、ご機嫌斜めのマリエナはレクスの腕を胸に埋めるように抱きとめながら、連れ添って歩く。
そんなマリエナの柔らかな身体を右腕いっぱいに感じながらも、レクスはぷりぷりとしているマリエナに対し、苦笑いを浮かべながら歩いていた。
そんなレクスの頭の上には、バランスを取るようにビッくんが乗っかっている。
「ビッ!ビッ!」と鳴きながら機嫌が良さそうに身体を左右に揺らしていた。
「なぁ……マリエナ、機嫌直してくれって……。」
「別にぃ……怒ってないもん。おかあさんがからかってくるからだもん。」
レクスからはどう見てもへそを曲げているようにしか思えないのだが、マリエナは認めていないようだった。
そんなマリエナの様子は、どこか可愛らしく、幼いようにもレクスは感じていたのだ。
何ならレインと比べても幼く見えるマリエナの態度に、レクスはクスリと笑みを溢す。
するとレクスが笑っていることに気がついたマリエナは、レクスにむっとしたような視線を向ける。
「……レクスくんもレクスくんだよ!おかあさんと楽しそうに話しちゃってたし!」
「そんなこと言われてもよ……仕方ねぇだろ。アーミアさんが様子聞きたいって言ってたからよ……。」
「それでもなの!レクスくんはわたしの…こ、恋人……。」
「恋人」と言いかけた瞬間、ぷしゅうとマリエナの頭から煙が噴き、顔を真っ赤にする。
顔を赤くして俯いたマリエナだが、レクス自身も赤い少しそっぽを向いて頬を搔く。
レクス自身も口にされると気恥ずかしかった。
いまだにレクスはマリエナと恋人ではないのだが、その実はほぼ確定しているようなものだ。
既にマリエナはレクスがいなければ生きていけないようなものだからだ。
(マリエナが俺の隣にいるなんて、あの時は想像もしてなかったけどよ……。)
レクスの脳裏に浮かぶのは、マリエナと初めて会った日の出来事。
ハニベアでマリエナを一目見たときだ。
あの時レクスにマリエナに一瞬見惚れはしたものの、まさかこんな関係になるとは思ってもいなかったからだ。
(……しっかりしなきゃいけねぇな。俺もよ。皆の泣き顔なんざ、真っ平ごめんだ。)
そんなレクスの目に映るのは、いまだに顔を赤くしてあわあわとしているマリエナ。
そんなマリエナを見てレクスが左手を握り込んだ時だった。
「ビッ!ビッ!」
レクスの頭に乗っていたビッくんが声を上げる。
「ん?どうしたビッくん?……なるほど。ここか。……俺にゃ少し、似合わねぇ場所かもなぁ。」
ビッくんの鳴き声にレクスは顔を上げ、少し苦笑いを浮かべた。
そこにあったのは、大きな白亜の壁と柱がまるで威厳あるかのように佇み、学園の校舎よりも一回り高い建物と尖屋根は荘厳な雰囲気を感じさせる建築物。
その入口には貴族の人間だろうか、燕尾服の男性や色とりどりのドレス姿の女性で賑わっている。
いつもレクスが行く広場ではなく、マリエナたってに希望がここでのデートだったのだ。
『ねぇ、レクスくん。演劇って興味ある……かな?』
デートの前にもじもじと不安そうに聞いてきたマリエナに、レクスは二つ返事で軽く頷いた。
演劇を広場で見るものだと思っていたからだ。
しかし、実際に演劇が行われるのは劇場。
レクスも王都へ来て四カ月目になるが、こういった場所に来るのは初めてであり、「ドレスコード」という言葉を聞いたのも、ここが初めてだった。
(しっかしでっけぇな……舞台ってこんなとこでやんのかよ。アルス村の旅の一座なんて広場で演劇やってたのによ。全然違ぇってことか。アランもカリーナもこんなとこにいつも行ってたのかよ……。)
レクスの中では演劇と聞くと村にやってきた一座が広場を舞台に演じるというイメージだったのだが、そのイメージとは全く異なる「劇場」という舞台に、レクスは僅かに戸惑いを感じていた。
呆然としていると、レクスの右腕がくいくいと引かれる。
レクスが振り向くと、腕に掴まっていたマリエナがきょとんと、しかし赤い顔のままでレクスを上目遣いで見ていた。
「どうしたの?レクスくん。早く行こう?」
「あ、ああ。悪ぃな。……こんなところ来たことねぇからよ。少し呆然としちまって。……行こうか、マリエナ。」
「うん。レクスくん!」
レクスがにっと笑い頷くと、マリエナも目を細め頷く。
ぴょんとビッくんがレクスの頭から飛び降り、石畳に降り立つとともに、レクスとマリエナも歩き出した。
同じくドレスや燕尾服を着ている貴族たちの横をマリエナを連れながら巧みにすり抜け、チケットの売り場に並ぶ。
ビッくんもてちてちと歩きながら、レクスとマリエナの足元に着いて来ていた。
そんなレクスとマリエナの姿を、周囲の貴族たちはちらちらと見ている。
それも当然のことだろう。
マリエナとレクスが美少女と美男子であることに加え、サキュバスの一族で貴族として名を馳せるのはマリエナの「クライツベルン」家だ。
サキュバスであるクライツベルン家の女性に付き従う男性は、魔眼を受けた奴隷のようなものであるという認識がある中で、マリエナをエスコートしているレクスに注目が集まるのはごく自然なことであった。
奇異の目や憐憫の目が集まっているのはレクスも薄々感づいていたが、特に気にする程でもないとレクスは無視を決め込んでいた。
列は滞りなく進み、チケットを買う順番が回って来ると、受付の女性が二人に礼をする。
こちらも赤いドレスを纏った女性であり、所作も丁寧な様子に、レクスは僅かに目を見開く。
(……やっぱり住む世界が違ぇ……。やっぱ俺、場違いじゃねぇか……?)
そう思うレクスを知らずに、女性は丁寧にカウンターの上に羊皮紙を広げる。
「本日はようこそおいでくださいました。二名様ですね。本日の公演をお求めでしょうか?」
レクスを真っ直ぐ見て話しかける女性の声に、レクスはコホンと咳払いして、頭の中のスイッチを切り替えた。
「はい。僕と彼女の二人です。大丈夫でしょうか?」
レクスがアーミアに会うために、以前カルティアたちに教え込まれたマナー講習。
その成果を発揮していた。
「はい、二名様ですね。かしこまりました。少々お待ちください。」
女性はにこやかに笑いながら応対し、羊皮紙のチケットにサインを記すと、印鑑を取り出し、朱肉につけてポンと押した。
「はい。それでは二枚で二万Gになります。」
女性はカウンターの上に置かれた羊皮紙のチケットを二枚差しだす。
それに合わせ、レクスは足元を歩いていたビッくんを抱え上げた。
ビッくんの姿を見た受付の女性は、僅かに目を丸くし、ギョッとしたように硬直する。
「ありがとうございます。……すみません、申し遅れたのですが、この「ダークネスサーヴァント」の子は連れて入っても大丈夫でしょうか?」
「あ、ああ。ダークネスサーヴァントの使役魔獣でしたか。そのくらいの大きさでしたら、膝の上で大人しくされているのでしたらかまいませんよ。」
ギョッとした受付の女性は、ビッくんがダークネスサーヴァントだとわかると、ほっとしたように笑顔でコクリと頷いた。
「ありがとうございます。僕も彼女も少し不安でしたから。」
レクスはにこやかに微笑むと、ポケットから金貨を二枚取り出し、手渡した。
「はい。確かに二万G頂戴しました。……それでは、ごゆっくり夢の世界をお楽しみください。」
チケットを二枚受け取ったレクスは受付の女性に優雅に一礼をすると、マリエナを伴い入口に歩き出す。
そんなレクスを、マリエナは熱を帯びた眼でじっと見つめていた。
もちろんマリエナは無意識にレクスに魔眼が発動しているのだが、そんなことはお構い無しと言わんばかりにレクスとマリエナ、抱えられたビッくんは劇場へと足を踏み入る。
演目は「お姫様と黒い龍」。
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