つないだもの
暗闇の中、音も光も届かない奥底。
レインはただ水の中をふよふよと漂う感覚で蹲っていた。
(……ここは……どこです?)
その他は何も感じることがない。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも。
ただただそこにいるだけ。
そうとしか言えなかった。
つまらなくもなければ、面白くもない。
何もせず、何も感じることのない空間の中で、レインは一人きりだった。
時折何か記憶を思い出すのだが、そこに映る自分の姿が、他人のように思えてしまうのだ。
笑っていて、少し怒っていて、泣いていて、嬉しそうで。
何故そんな表情をしているのか、今のレインには全く理解できなかった。
(……どうでもいいです。あちしは……。)
ただ、何かが疼くのだ。
何か、大切なものをまるまる喪ってしまったような、そんな感覚がレインの内に、ずっと残っている。
不思議だとは思いつつも、ただ蹲っていたかった。
何もかも、何の感情も感じないのだから。
そうして、目を閉じようとした時だった。
”ぴきり”と。
レインのいる暗闇の中に、亀裂が入り込む。
その亀裂はぴしぴしと音を立てて割れゆき、ついには穴が空いた。
その穴からは、優しく光が射し込んでいる。
(……明るい……です……。)
レインはなんとなしに気になって、優しげな光へふわふわと浮遊するように向かう。
「……ン!……イン!」
誰かが、レインを呼ぶ声が聞こえた。
光の向こう側からのように感じ、レインはその光の先を覗き込んだ。
「レイン!」
(……あ、あれは……。)
レインを呼ぶ声を発していた人物に、レインは大きく目を開ける。
両親に初めて買ってもらった絵本「お姫様と黒い龍」。
そこに出てきた王子様の姿を、レインは目の当たりにした。
初めて買ってもらった思い出の絵本であり、大好きだった絵本。
事故に遭ってから忘れていた記憶の一頁。
思い出の王子様を目の前にし、その人物に歩みよろうとした。
「レイン!」
「おーじさま……ずっと、あいたかったです。」
ゆっくりと、しかし確実にその王子様に歩みを進める。
(そうです……確か、絵本の最後は……。)
レインは今は亡き両親と一緒に頁を捲る瞬間を思い出していた。
「レイン!こっちだ!」
目の前の王子様が自分に向けて手を差し伸べる。
絵本の挿絵と、全く同じ光景。
暗闇の中に囚われたお姫様に向けて手を差し伸べる王子様に、レインはゆっくりと手を伸ばした。
(王子様が、迎えに来てくれたです……!)
手を、取った。
そのままぐいっと強い力で引っ張られる。
そして、王子様にその身を抱かれた。
柔らかい力に、鍛えた男性の硬い身体。
暖かい体温に包み込まれて。
(ああ……全く同じです。だから……。)
夢のようだった。否、夢だと思い込んでいた。
安堵したような王子様がニコリと微笑む。
レインはそのまま背伸びをして。
「……んむぅ」
王子様と、唇を、重ねた。
瞬間。
蓋のしてあった感情の奔流が、レインの中で一気に解き放たれた。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも。
じわりと伝わる清流のような穏やかなせせらぎがレインを包み込む。
無意識に、ぽたりと。
レインの目元からは、雫が垂れていた。
◆
レクスが剣を振り抜いた先。
真っ黒な血液が噴き出る中に、レクスは目を凝らす。
異形のねちゃついた、ドス黒い断面のさらに奥。
眼を虚ろに閉じかけたレインが、ただぼおっと正面を見ていた。
「レイン!……レイン!」
レクスが声を掛けると、閉じようとしていた虚ろな目がゆっくりと開いていく。
「レイン!」
もう一声。レクスはレインに声を掛ける。
既に全てを諦めたような虚ろな目は、それでもレクスの声に反応しているようだった。
(レイン……絶対に、助け出す!)
表情を喪っているレイン。ダメ元でもいいと。それでもレインをレクスは助けたかったのだ。
まだ、レクスは約束を果たしていないのだから。
「レイン!」
「おーじさま……ずっと、あいたかった……です。」
何処か夢を見ているような声。
それでも聞こえたレインの声に、レクスは少し安堵する。
異形の断面に覗くレインに、目一杯手を伸ばす。
「レイン!こっちだ!」
レクスの声に反応したように、タールに塗れたような真っ黒な肉の間から、白魚のような細い手が伸びる。
手を取り、離すまいと強く握る。
一気に、引き抜いた。
黒い血液に塗れた身体に構わず、レクスは引き抜いたレインを大事に抱え込む。
(良かった……。死んじゃいなくてよ……。)
安堵して、ため息をつきながら口元が上がった。
その時。
「……んむぅ。」
レインの唇が、レクスと重なった。
突然のことに、レクスは目を見開く。
(……レイン!?)
レクスは驚くも、レインの頬に伝う涙に気づき、そのキスを受け入れた。
短くも永い一瞬の後。
唇が離れると、みるみるうちにレインの顔が赤く染まり、青銅の眼が大きく見開かれた。
「レ……レレレレ……レクスさん!?あ、あちしに何してるです!?け……けだものです!えっちです!」
「わ、悪ぃ……。ってしてきたのはレインだろ。」
「え!?そ、そうなのです!?てっきり夢かと……あれ?レクスさん……その角と翼は……?」
「……ああ。マリエナがレインを助けてくれってよ。……さて、と。」
レクスは顔を上げる。
その貫くような眼はレインが入っていたところより、さらに奥にいる人物を見据えていた。
「……かえ……して……アタシの……娘を……。」
やつれきった顔で、弱々しく二人を見つめ、黒い空間の中から必死に手を伸ばす。
悲しき淫魔が、力なくそこに埋まっていた。
何処か哀愁の漂うアンデットのようなメギドナを見て、レクスはふうと苦々しくため息をつきながら、右手の剣を再び構えた。
「……悪ぃが、レインはあんたの娘じゃねぇだろ。……カタはつけさせて貰うぞ。」
鋭く、射貫くような視線をメギドナに向けるレクス。
抱え込まれたレインは、不安そうにレクスの顔を見上げている。
メギドナは、つうと涙を流し、必死にレインに手を伸ばし続けるだけだ。
「終わりだ。」
レクスは、渾身の力で。
剣を真っ直ぐ、黒い深淵の割れ目の先へ突き込んだ。
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