膨らんだ女
「あ……があああああああああっっ!」
まるで断末魔のような叫び。
メギドナの手から、ポロリと空のアンプル瓶が滑り落ちる。
眼は裏返り、身体の至る箇所から混沌とした黒い液体が溢れ出す。
むせ返るような、泥を煮詰めたような異臭。
地面に広がる黒い染みは、”ゴポリ”と泡がたち、異様な光景をレクスの瞳に映し出していた。
溢れ出るドロリとした液体がメギドナとレインを包みこむ。
「レイン!」
レクスの声にレインは全く身動ぎすらしない。
その立ちつくした姿は、意思を持たぬ人形のように、虚ろに前を向いているだけだ。
何も言わず、メギドナと共に黒い濁流に飲み込まれていった。
レクスは眼を釣り上げ、唇をかみしめる。
レインの瞳は、何も映していないように見えたから。
しかし、レクスには惑う暇はない。
異様な光景に潜む、あることに気が付いた。
(何だ……!?修練場の外からも集まってる……?)
修練場の入り口からも次々に黒い闇の液体が侵入してきていた。
(もしかして、そういう事か!?)
レクスは黒い液体が修練場の外からも集まっていることで、脳裏によぎったことがある。
それは。
(こいつら……ダークネスサーヴァントか!)
修練場の外から続々と集まる影と、膨れあがる巨大な闇の塊。
それは、意思を持って一つになっていく。
まるで、母親の元へ集まりゆく赤子のように。
◆
「これは一体……、どういうことですの?」
カルティアが訝しみながら呟く。
レクスがメギドナの異変を目の当たりにしている頃、グラウンドの中でも「それ」は起こっていた。
「…何……?…これ……?」
アオイも眼を見開き、戸惑ったように呟く。
クナイを構えたまま、起こっている現実に眼を瞬かせていた。
先程まで戦っていた闇の影。
それらが一斉に、溶け出すように崩壊していったのだ。
崩壊した闇の影は、液体となって、蛞蝓のように”ズズッ”音を立て、何処かへと去っていく。
「……ただ事じゃないわね。一体何が……?」
チェリンもシミターを構えたまま、困惑しながらも辺りを見渡す。
影が黒い液体となり、次から次へと崩壊していく光景は明らかに異様だ。
魔核すらも残らずに這いずり動く闇の液体は、何処か一方向へと向かっているように見えた。
「何これ……どうなってんのよ……?」
「一体何が……起こっているんですか……?」
「き、気持ち悪いのです…。な……何なのですか……?」
リナも、カレンも、クオンも。
崩れ去る人影を眺めていることしか出来ない。
守られていた女子生徒すらも、怯えて困惑し、泣き出す生徒すらいるほどだ。
ピンクの空は開けぬままに、ただ闇の人影が崩れ去る光景は、異様でしかなかった。
這いずり行く人影が向かう方向。
それはレクスが向かって行った方向。
「レクス……。」
無意識に呟かれたリナの声。
その声は、何処か心配しているようだが、這いずり去りゆく闇の音にかき消された。
◆
背筋に鳥肌を立て、魔導拳銃を構えるレクスの目の前。
闇の液体が飛び込んでいくように集まり、大きな球体が卵のように形成されゆく光景がそこにあった。
メギドナも、レインも取り込んだ闇の塊。
修練場に聳え立つように形づくられたそれは徐々に大きく、異形と化すように変異していく。
(何だ……!?何が起こってやがる……!?)
レクスの頬を、つうと汗が滴る。
ぽたりと汗が地面に落ちた瞬間。
闇の卵に、ぴしりと亀裂が入った。
”パキパキ”と音を立てて割れゆく闇の殻。
そして、「それ」は目覚めた。
レクスは顔を引き攣らせ、目を見開く。
銃を持つ手が、カタカタと震えていた。
「なん……だ……?ありゃ……?」
レクスが不意に呟いた声すら、震えていた。
感じたものは、圧倒的な「恐怖」と「悍ましさ」。
目の前に映る「それ」を、レクスは理解したくなかった。
その見た目は、「醜悪」の一言。
大きさは、修練場の半分を覆い尽くすぐらいだろうか。
混沌をないまぜにしたかのような悪臭を放ち、体色は、昏く淀みきった黒。
脚のあるべき場所には、うねうねと蠢く絨毛をつけた触手の山。
胴体は膨れ上がり、贅肉の塊が幾重にも積み上がるよう。
腕は大木の如く太いが、ぬめっとしたようにテカりを放ち、その先端は獣の歯が生えた触手。
そして……頭部のあるべき場所。
そこには、顔のない、女性の上半身。
切れ込みが入るように、五つの口。
形容しがたき無貌の異形がレクスの目の前に聳え立っていた。
眼前の異形にゾクゾクと身体を震わせるレクス。
その思考には、恐怖が入り混じる。
(何だ…!?いったい何なんだあれはよ!?怖ぇ……怖ぇよ。)
しかし、レクスはギッと歯を食いしばり、腰を僅かに落とす。
”ジャリリ”と、砂と靴が擦れた。
恐怖を振り払うかのように、レクスは目の前の異形を見据える。
何故なら。
今、この場で逃げるわけにはいかないからだ。
マリエナは傷つき、レインは異形に取り込まれた。
例え今、マリエナを連れて逃げたとて、学園は壊滅するのは明白だ。
さらには、カルティアも、アオイも、リナも、カレンも、クオンも。加えて、レクスの大切な友人たちやチェリンも。
危険な目に会わせてしまう。
それだけは、許せなかった。
ーー立ち向かわなければならない。
ただ一つのその事実が、レクスと異形を対峙させていた。
「ーーーーー!ーーーー!」
声にすら聞こえない高周波のような音とともに、”ぐちゃり”と音を立てて、異形の背後から触手が現れる。
それを見たレクスも銃口の照準を頭部らしき部分に合わせる。
そしてそれはほぼ同時。
ビュンと風を切り裂き、触手の切っ先がレクスに向かう。
レクスも拳銃の引き金を引き、銃口から閃光が迸る。
今ここに、決戦の火蓋は切って落とされた。




