マリエナ
ーーそれを初めて見たとき、マリエナは眼を疑った。
幼い頃のマリエナは、恐れを知らない少女だった。
「おかあさん!ごほんよんで!」
「あらあら、マリエナったら、すごくこの本が好きなのねぇ。またじゃないの。」
幼いマリエナのキラキラとした目線。
アーミアはクスクスと微笑んで、その絵本を受け取った。
絵本の名前は「お姫様と黒い龍」。
絵本の内容は、悪い龍に攫われたお姫様を、王子様が勇敢に助け出すという物語。
その本が、マリエナのお気に入りだった。
本の中の王子様が、マリエナの初恋。
勇猛果敢な王子様に助け出されるお姫様を、幼いマリエナは自身と重ね合わせていた。
遊びに出かけるときは、ぬいぐるみを二つ、必ずマリエナは持っていく。
それは、あの絵本の王子様をかたどったぬいぐるみと、自身をかたどったぬいぐるみ。
アーミアに作ってもらったものだ。
「クリスちゃん!あそぼ!」
「またですか、マリエナちゃん。」
「うん!お人形あそび!」
「えぇ〜?またぁ?」
幼馴染のクリスとルーガに呆れられつつ、遊ぶ時には必ずお人形を使い、王子様役をクリスかルーガ、自身がお姫様を演じていた。
いつか自分も絵本の王子様に出会い、恋に落ちると信じ切っていた。
そうしてしばらく経ったある日、マリエナはアーミアの都合により、メギドナの元に預けられる。
行ったことのない叔母さんの家。
わくわくとした興味に心を弾ませながら、門をくぐる。
そんな幼いマリエナが見たのは、「吸精」の現実。
そこにあったのは……「地獄」。
椅子に縛りつけられ、眼を無理矢理開かされて。
「吸精」を見せつけられた。
「やめてぇ!やめてあげてよぉ!」
「いい、マリエナぁ?サキュバスはこれが本来の姿よぉ!狂った本性で、男を貪り殺すの!淫猥な本性は、いつか必ず目覚めるわよぉ!貴女もいつか、こうなっちゃうの!だから、よぉく見ておきなさい!」
「や、やめて……やめてぇーーーーーーーーーー!」
マリエナの絶叫が響く中、吸精行為の見せしめは続けられた。
それが三日三晩続いた後、マリエナはメギドナの家から帰ることになる。
マリエナは、既に以前とは変わってしまっていた。
快活で元気な性格は雲隠れし、帰った直後から、マリエナは部屋に閉じこもってしまったのだ。
アーミアが呼んでも、クリスやルーガが呼んでも、部屋から出てこようとはしなかった。
正確には、食事とトイレのときだけしか部屋から出てこなくなっていたのだ。
食事中も、アーミアとの会話はない。
ただただ食事を口に運ぶだけだった。
何時も持ち歩いていた二つの人形は、雑多にベッドの上へ放り投げられている。
好きになった男の子を「殺してしまう」ということを、恐れてしまったのだ。
そうして引きこもり続けたある日、マリエナはたまたま自室にあった本を捲った。
それは、闇魔術の簡易な指南書。
そこに書かれていたのが、「ダークネスサーヴァント」。
自身の使役魔獣を呼び出すという呪文だ。
それを見たとき、マリエナは思った。
(おともだちに……なってくれるかな?)
このとき、マリエナは幼馴染たちも避けていたのだ。
しかし、寂しさは募る一方。
話し相手が欲しかったのだ。
居てもたってもいられず、幼いマリエナは手を前にかざす。
「ダークネス……サーヴァント。」
震える声で、マリエナは恐る恐る呪文を唱えた。
マリエナの掌がぽわりと優しく光る。
このとき、マリエナはダークネスサーヴァントの呪文が魔力を大きく消耗するものだとは知らなかった。
光は徐々に集まり、丸い形を創り上げる。
そして、光がパンと弾けた。
そこに立っていたのは。
「……ビ?」
黒い球体に突起のような短い手足。
眼は白く、ギザギザな口をした一頭身。
背中には小さな蝙蝠の羽。
小さく長い尻尾も付いている。
真っ黒な球体は、ただじぃっとマリエナを見つめていた。
「あなたは……だあれ?」
「ビッ!ビッ!」
「なんていってるかわからないよ……。」
「ビッ」としか鳴かない何か。
マリエナは苦笑しながらも嬉しいと思った。
なぜなら、マリエナから見て、その何かはとても可愛く映ったのだ。
キョトンとした表情に、ついついマリエナも微笑む。
それは、メギドナの屋敷から帰ってきてから、初めての微笑みだった。
そんなマリエナを見て、何かもにこりと眼を細める。
「あなた、ビッしかいえないの?」
「ビッ!」
コクコク頷く何かに、マリエナは「うん!」と頷いた。
「おなまえ!つけてあげるね。」
「……ビ?」
なんのことかわかっていなさそうな何かを前に、幼いマリエナは頭を捻る。
「うーん……そうだ!「ビッくん」!あなた「ビッ」しかいわないもん。」
「……ビ!」
マリエナに、その何かはコクリと頷く。
これが、マリエナとビッくんの出会いであり、部屋から再び外に踏み出すきっかけになった。
柔らかくて無邪気にみえるビッくんは、マリエナの傷ついた心を優しく癒したのだ。
ビッくんを呼び出した後、マリエナは部屋の外に自分から出られるようになった。
初めてビッくんを見たアーミアは、少々驚きつつもにこりと笑って、きょとんとしたビッくんを撫でたことを、マリエナは覚えている。
幼馴染のクリスとルーガにも、だんだんと会うことが出来るようになっていった。
ただし、ルーガに慣れるようになったのは、もうしばらく後のことになってしまった。
ルーガを見るたび、恐怖を思い出してしまったから。
それは、ルーガ以外の男性も同じだった。
やはり、メギドナの「見せしめ」が原因で、「男性を殺してしまう」という言葉が、マリエナには深く刺さり込んでいたから。
それから数年ほど経ち、マリエナはアーミアからお見合いの打診を受けるようになった。
サキュバスの「相手」は、吸精相手として、後継ぎを確保するために重要だからだ。
その頃のマリエナは身体も成熟してきており、誰もが振り返る美少女へと成長を遂げていた。
しかし、その心は未だに過去の「見せしめ」に囚われたままだ。
幾度となく入るお見合いの話。
マリエナは全て断り続けてきた。
そうして、お見合いの話を断ったあとは必ず自室に帰って落ち込んでいた。
恋愛の自由はない。
したところで相手は後々魔眼に取り込まれるから。
サキュバスとのお見合い相手は、それを是とした男たち。
加えて「見せしめ」の影響で、男性の吸精=相手の死という公式を、マリエナは覆せなかった。
そんなマリエナは、何時もビッくんに囁く。
「ビッくん。あなたがわたしの王子様を連れてきてくれれば良いのに。」
マリエナの言葉を理解していたのかはわからない。
しかし、ビッくんはコクコクと頷いていた。
そうした後、マリエナは王立学園へと入学する。
入試の時、首席だったこと。
そして、ちょうど前生徒会が卒業し、入れ替わるタイミングだったこと。
二つが重なり、マリエナは教員から生徒会長の打診を受けたのだ。
マリエナは快く引き受けたが、教員に一つ、条件を出していた。
それは、「慣れているルーガ以外の男子生徒を生徒会に入れないこと」
それを条件として生徒会の会長を引き受けたのだ。
そうして、生徒会のメンバーが決まった。
幼馴染のクリスとルーガ。
先輩であり、楽しいことが好きなヴァレッタ。
同級生の平民で、とても可愛らしいレイン。
五人で生徒会を纏め上げ、一年間の責務を全うした。
卒業するメンバーもいないため、翌年もそのままで生徒会は継続となった。
そんなある日、新入生を選抜する試験の日。
行きつけの喫茶店で、マリエナはとある男性を見かけたのだ。
その男性を見た瞬間。
マリエナは眼を見張り、己が眼を疑った。
後にその男性を入学式で見かけ、マリエナはその後輩にあたる男性を「運命の人」だと思ってしまった。
だからこそマリエナは、その男性を生徒会室に呼び出し、魔眼を使うに至ったのだ。
◆
風を裂き、堕ちていく最中。
マリエナは薄目を開く。
眼上に映る支配されたピンクの空は、マリエナを無力だと語っているようだ。
このまま落ちたら、楽になれるかと。
(……ごめんね。みんな。)
僅かに思った瞬間。
”ふわり”と。
マリエナの身体は、誰かに受け止められた。
その優しい感触に、マリエナは眼を開ける。
橙色の少しボサボサな髪。
眼は燃え盛る炎のような紅。
僅かに野生っぽさが残る、整った顔立ちはマリエナを見て安心したように柔らかく微笑む。
黒く、襤褸切れのようなローブが風にバサバサとはためいていた。
「……大丈夫かよ。マリエナ。」
「……レクス……くん……。」
マリエナの大好きな絵本、「お姫様と黒い龍」。
その《《挿絵と特徴が瓜二つ》》な人物。
あの日に初めて、喫茶店で目にした人物。
魔眼の効かない、「運命の人」。
王子様が、マリエナを優しく抱きとめていた。
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