曇天の道を
ぷんぷんと怒ったようなマリエナに腕を引かれ、レクスは屋敷の外へ出る。
外はすでに厚く黒い雲に覆われ、大粒の雫が勢いよく降り続いている。雫はびちゃびちゃと地面に打ち付け、波紋を生んでいた。
一歩でも踏み出したら、降りしきる雨粒で濡れ鼠になってしまうのは確実だろう。
玄関先は屋根が張り出しており、濡れることは無いが、地面から返る雨粒が裾を濡らしてしまいそうだ。
半分勢いで外に出てしまったマリエナは、困ったように空を見上げていた。
「どうしようレクスくん、傘一つしかないよ。」
「しまったな、俺も持ってきてねぇぞ……。」
困った様子で、レクスはマリエナに顔を向ける。
すると、何かを思いついたようにハッとして、その傘に目を向けた。
「そうだ、一緒に入れば良いんじゃねぇか?……ちょっとは濡れちまうけどよ。」
「え、えぇっ……!?」
レクスの提案に、マリエナは狼狽えたような表情を浮かべながら、ちらちらとレクスと傘を交互に見る。
その逡巡は、マリエナの服の所為か、はたまたレクスと共に入るという事実の所為か。
しばらく悩んだのち、マリエナはコクリと頷くと、レクスを横目で見てにこりと微笑んだ。
「じゃ、じゃあ、一緒に入ろっか。……傘は一個しかないからね。……仕方のないことだよね。」
「お、おう。悪ぃな。」
何処か言い訳じみたマリエナの言葉に、レクスは少し悪いと思いつつも頷いた。
マリエナがバッと傘を広げる。
青色の生地に少しフリルの装飾がついた、お洒落な傘を手に持つとレクスをちょいちょいと招いた。
レクスが傘の下に入ると、マリエナがレクスにぎゅうっと密着する。
柔らかく弾むような感触が、レクスの腕をすっぽりと包み込んだ。
「お、おい!?マリエナ!?」
「こ、こうしないと濡れちゃうもんね。……ほら、レクスくんももう少し寄って?」
「あ、ああ……?」
レクスに密着しているマリエナは、すでに頬を真っ赤に染めて、恥ずかしそうに上目遣いでレクスを見ていた。
レクスも自身の身体に伝わる、マリエナの胸やおなか、全身の柔らかさに顔を赤く染め、気恥ずかしそうにマリエナからそっぽを向く。
「ご、ごめんね。身体押しつけちゃって……。」
「し、仕方ねぇんだろ?……持つぞ、傘。」
「う、うん。……お願いね。」
レクスはマリエナの身体にドキドキとしながらも、マリエナの傘を持つ。
そのまま二人は身を寄せ合いながら、学園への道をゆっくりと歩き、帰っていく。
歩き始めると、二人は気恥かしさから無言になってしまった。
ざぁざぁと降りしきる雨粒のせいか、街道に人通りはほとんど見受けられない。
ぴちゃぴちゃと跳ねる雫が、僅かに衣服の裾を濡らす。
しかし、その中でもマリエナの肩だけは雨に濡れていなかった。
レクスが、傘をマリエナ側に寄せているのだ。
「れ、レクスくん。肩、濡れちゃってるよ?いいの?」
「……いいっての、こんぐらい。マリエナが濡れるより良いだろ。……せっかく、綺麗な服着てんだからよ。」
レクスはやはり気恥ずかしいようで、マリエナと視線を合わせようとしない。
その肩は、しとどに濡れてしまってか、黒さが際立ってしまっている。
さらには、歩幅をマリエナに合わせて歩いていた。
これもカルティアたちの教育の賜物か、幼馴染たちとの交流から来るものか。
そんな気遣いを嬉しく思いつつ、マリエナはクスリと微笑んだ。
「気を使わなくっても良いのに……。」
「……慣れてねぇのはわかってるよ。性分だっての。」
「ふふっ。それに、名前……「会長」じゃないんだ。」
「あっ……なんか、呼びなれちまってよ。駄目なら……。」
ハッと気がついたようなレクスに、マリエナはゆっくりと首を振った。
「ううん。そのままでいいよ。わたしもずっと「会長」じゃないもん。……それに、その方がいいから。」
「……そうか?なら、遠慮はしねぇよ。マリエナ。」
「よろしい。これからはそう呼んでね、レクスくん。」
満足そうに微笑むマリエナにつられ、レクスもにこりと微笑む。
雨音は激しい一方だが、傘の中は二人だけの空間に見えたことだろう。
肩を寄せ合い、マリエナにどぎまぎしているレクスと、満足そうにレクスの腕を抱くマリエナ。
人通りのない街道の中で、二人の歩く音だけが楽しげに木霊する。
「……こんな姿、カルティア様やアオイちゃんに見せたら、なんて言われるだろうね?」
「マリエナ、怖いことを言わないでくれ……。なんて謝りゃいいかわかんねぇんだから……。」
「そこはレクスくんの頑張り次第じゃないかな?……わたしにドキドキしちゃってるくせに。」
「誂わないでくれって。……マリエナは、俺が副会長から聞いたってこと、知ってたのか?マリエナは男が苦手だってことをよ。」
レクスの疑問に、マリエナは少し戸惑ったように視線を彷徨わせるが、コクリと頷いた。
「……うん。実は、あの時わたしは道具入れの中に居たの。お菓子を食べているときに、クリスちゃんが来たから慌てて隠れちゃったんだ。……まさか、わたしのことをレクスくんに話すとは、思ってなかったんだけどね。」
マリエナは観念したように、ぽつりと呟いた。
レクスはマリエナの方をちらりと見やる。
マリエナは苦笑いをしながら、レクスに顔を向けた。
「クリスちゃんの言う通り、わたしは、ずっと男の子が苦手だったの。一番付き合いが長いルーガくんですらも、わたしは触れない時期すらあった。……こんなにわたしが躊躇うことのない男の子は、レクスくんだけなんだよ?」
「……俺は特に何かした覚えはねぇけどよ。」
「うん。レクスくんが特に何かしたわけじゃないからね。きっかけは、あのおっきなパフェ食べてるのを見られちゃったことかな。それが、恋人のフリをお願いするまでになるとは、思わなかったけどね。」
「ははっ。そうかも知れねぇな。」
レクスが声を出して笑い、マリエナもつられて微笑む。
二人はそのまま笑い合い、雨の中を歩き続ける。
しばらく歩いた二人は、校門の手前まで帰って来ていた。
校門まで帰ってくると、マリエナはふぅと溜め息をこぼす。
どうしたのかとレクスが顔を向けると同時に、マリエナも何処か潤んだような眼をレクスへと向けた。
「今日までありがとうね、レクスくん。大変だったでしょ?……知ってるよ、レクスくんがわたしの為に、必死にマナーや振る舞いを練習したってこと。」
にこりと微笑むマリエナに、レクスは若干の気恥ずかしさを感じて、頬をぽりぽりと掻いた。
「知ってたのかよ、マリエナ。」
「うん。ずっと食堂で皆に教えて貰ってるところを見てたからね。わたしの為に、ありがとう。レクスくん。……でも、今日までなんだよね。レクスくんがわたしの恋人のフリって。」
「……マリエナ?」
急に気落ちしたように俯くマリエナを、レクスは心配そうに見つめる。
校門までもうあと僅かというところで、その足は止まっていた。
「この門を潜ったら、わたしとの恋人のフリは終わり。だから……それまでは……こうして……いさせて……?」
マリエナはぎゅうっとレクスの腕を抱き締める。
雨に紛れて、ぽたりぽたりと傘の内側に雫が落ちた。
それは、マリエナの目元から落ちた、心の雫。
最初は、軽い気持ちだった。
魔眼が効かなかったことだって、きっかけでしかない。
レクスが時折見せる姿や、デートでの振る舞い。
自分の為に必死に頑張ってくれる姿や、自分を思ってくれる発言。
昨日まではわからなかったが、今ではすでに、マリエナは後悔していた。
レクスを好きになったどころではない。
マリエナ自身が、恋に落ち、レクスを求めてしまっている。
その気持ちは、もう誤魔化しが効かない。
だがマリエナは、無理やりにでも蓋をするしかなかった。
レクスと恋人になるには、現状カルティアとアオイの許可がいるのだが、マリエナが気にするのはそこではない。
アーミアには言われたものの、やはりマリエナは怖いのだ。
サキュバスの吸精は特殊だ。いくら体力自慢だろうと、魔力と同時に吸い上げる吸精は危険を伴う。
自身と完全に相性の合う人物でなければ、吸精は手加減して行うことが一般的だ。
レクスを壊してしまう、レクスを殺してしまうという恐怖が。結果としてカルティアやアオイを悲しませてしまうという思いが。そうすると、自分が恋していい男性などいない気がして。
楔のように深々と打ち込まれたトラウマが、マリエナを追い込んでしまっていた。
そうなってしまえば、マリエナ自身が耐えきれないから。
「この門を潜れば、わたしは……大丈夫だから……。もう少しだけ……このまま……。」
「……ああ。わかった。」
レクスは、歯を食いしばっている。
悲しませたくないと思った女性を、悲しませてしまっているという事実に、レクスはひたすらに無力だった。
どう、声をかけて良いのかすらわからない。
(マリエナを悲しませたくねぇってのによ……!どうすりゃ良いんだよ……!?……畜生!)
歯を食いしばるレクスをよそに、マリエナは腕を抱く力を強くする。
ただ、レクスの体温を感じていたかった。
それだけが、マリエナの想いを繋いでくれそうな気がして。
降りしきる雨は、強さを増す一方だ。
曇りきった空は、未だ晴れない。
お読みいただき、ありがとうございます。