優秀な悪魔 爆発する娘
押し入れの奥に古そうな壺が置いてあった。その赤黒い壺は小汚く色褪せ、煤けている。
妻の趣味だろう。
最近、私に隠れて魔除けの天然石とか、お祓い用の塩だとか、身を護る御札とかを集めだしては押し入れにしまっていた。
全く困ってしまう。
今日の喧嘩の原因も妻の金遣いの荒さであり、つい殴ってしまったではないか。
(中にヘソクリが入っていたりして)
何の気なしに壺の蓋を開けると、もくもくと白い煙が立ちこめる。
そして、煙の中から小柄な中年の男が出てきた。
「こんにちは」
男はマヌケなほどニコニコと笑いながらあいさつする。私は突然の出来事にその場から飛び出し、呆気にとられたまま開け放たれた押し入れを見つめるしか出来なかった。
「まあまあ。そんなに驚かないでくださいませ」
私を追って男も押し入れから出てきた。そして、おもむろに目の前で跪いた。
「ワタクシは悪魔です。しかも、優秀な悪魔です。あなた様の願い事を叶えてさしあげますよ」
「願い事? 悪魔だって? どんな仕掛けのイタズラなんだ?」
「仕掛けではありませんよ」
悪魔は微笑みながら、でも、真剣に私を見つめている。
「願いを2つまで叶えて差し上げます」
「こういうのって普通3つじゃないのか?」
「ええ。よくご存じで。でも、ワタクシの願いは一家族につき3つ。すでに奥様にひとつ頼まれておりますので残りはふたつです」
妻に先を越されていたなんて。私は思わず舌打ちを打つ。
「あいつ、何を頼んだんだ?」
「それは言えません。他の依頼主のお願い事をベラベラとなど。ワタクシ、優秀な悪魔なので」
「あ、そう」
私は少し考えて、
「それならたくさんお金が欲しいなぁ。働かなくてもいいくらいの額を。できる?」
と、適当に答えた。どうせ叶うわけもない願いだろうから。しかし、悪魔は大きく頷いた。
「はい、もちろん。でも……いいんですか? ここは現代日本ですよ? 大量のお金をお札で手に入れても、不信がられますよ?」
「それはそちらがどうにかしてくれるのでは?」
「申し上げにくいのですが、私が叶えられるのはお金を得るという事実だけ。辻褄あわせまではサービスの範囲外でございます」
悪魔はわざとらしく眉尻を下げてみせる。
「お金には番号が記されているの、ご存じですよね? 大量のお金を現金で手に入れたとして、人に見られた時に魔法の力で集めましたと説明するんですか?」
「じゃあ銀行に振り込んでおいてくれよ」
「つまり、どこの銀行口座からでしょうか?」
「その辺は魔法でなんとかなるだろ?」
「データ上で額を操れても、実態はありません。実態のない口座から入るのは魔法によるお金。この魔法のお金が発覚した時、どうご説明するんですか?」
悪魔は口ごもる私を覗き込む。
「硬貨でお渡ししましょうか? 重みで床が抜けても責任は負いかねますが」
「もういい」
こいつ、カネを渡すきはないのかもしれない。こうなったら突飛なことを頼んでみよう。
「じゃあ。妻の死体を隠してくれないか?」
私は床に倒れたままの妻を指さした。
「さっき、口論してたら殴り殺してしまったんだ」
大して稼いでもいないくせに娘を大学に行かせたいなんて、ふざけたことをいい出して聞かないからつい殴ってしまった。妻がいけないんだ。こちらの苦労など全く知りもしないくせに偉そうなことを言うから。
「ーー奥様を生き返さなくていいんですか?」
「いや。それより保険金が欲しい。事故死に見せかけることはできるか?」
「いいえ、死因を変えることはできません」
「隠すのは?」
「隠すことはできますが」
「じゃあ、それを頼む」
その時、タイミング悪く玄関の鍵が開く音がした。娘が帰ってきたのだ。
「早くしてくれ」
焦りのまま悪魔の方を見ると、穏やかに微笑んでいる。見ると、妻の死体は既に消えていた。
「おい。叶えたならさっさと消えてくれ」
「わかりました」
悪魔はニッと笑う。
「3つ目の願いをいただきました」
私は思わず目を見開いていた。
(しまった!)
焦ったばかりにうっかり3つ目の願いをしてしまったではないか。
「さようなら」
悪魔は白い煙とともに、赤黒く汚れた壺の中へと消えてしまった。
私はゆっくりと押し入れの戸を閉める。怪しまれないように。
★
「おかえり」
平静を装い、帰ってきた娘をリビングでお出迎えする。娘は私に気づくと即、嫌悪でいっぱいの顔をした。
「早いね。学校はさぼり?」
娘は答えなかった。たぶんテスト期間中なのだろう。
「ーーお父さん。お母さんは?」
代わりに答えられない質問をしてきた。
「いや、知らないなぁーーパートじゃない?」
咄嗟に嘘をついてしまった。
ひと月前、話し合いの最中に口論になり、妻に私の出身大学のランクの低さを罵られ、激しい言い争いになった。その日からずっと会話をしていなかった。
だから、私が妻の動向を知らなくても不自然ではないだろう。
実のところ、今日妻は私と娘の進学について話し合いをするためにパートを休んでいる。銀行に行きたかったらしい。私も昼で仕事を切り上げ帰ってきた。
折り合いの合わない奴らばかりの職場を逃げ出すように。
そんな私に労いもなく、妻は偉そうに自分の意見を述べまくっていた。そして、話し合いは喧嘩に発展し、殴ったことにより中断。妻は打ちどころ悪く息をしておらずーーなんて、本当のことは答えられない。
娘は不服そうにこちらを睨んでいる。
(何だ、その顔は)
父親を睨むなんて、母親の教育が悪ったんだろう。
「疲れたな。ちょっと座って休むけど、昼飯どうする?」
「いらない」
娘の冷たい返答はいつも通り。妻とのことを怪しんでいないようだ。内心ほっとして、私はリビングのソファにどかっと座る。
すると、
「ちょっと」
リビングの入り口で立ち止まったまま、娘が声を上げた。
「なに?」
「リモコンの上に座らないで」
自分の尻の下にテレビのリモコンが落ちていた。
「そんなことしたらリモコン爆発するよ」
「はぁ? しないよ」
「いいえ。するかもしれない」
「リモコンは座ったくらいで爆発しません。学校で習わないの?」
娘は無表情のまま答えない。やっぱり馬鹿だ。大学には行かせられない。
しかし、私は久々に娘と会話できて嬉しくなっていた。妻への優越感がむくむくと育ってきていた。
「お前はさっさと着替えておいで。お父さんは腹減ったからなんか食べるよ。カップ麺あるな。お湯沸かさないと」
少しご機嫌になって、台所へ向かうと私は水を入れた鍋をコンロに乗せ、カチカチと音を立ててガスレンジを点火させた。
「ちょっと!」
娘が再び叫んだ。
「お湯なんて沸かさないで」
「はぁ?」
「ガス台爆発するよ」
「しないから。お母さんが使ってて爆発したことなんてないだろ?」
「でも、するんだよ?」
娘の口元だけがぎこちなく笑っている。冗談なのか、本気なのかわからない。
意味深な笑顔を残して、娘は自分の部屋へと消えていった。
私はしばらく動くことが出来なかった。
娘の顔はこんな顔だったか?
娘は小さい頃からママっ子で、思春期を過ぎてと妻と仲が良かった。だから何となく邪魔者扱いされている気がして話すことが減り、顔を合わせることもなくなっていた。
(いや、それでも)
爆発なんて冗談だ。本気なはずない。きっと嫌がらせだ。馬鹿なふりをして私をからかっているに違いない。妻のように。
「麺だけじゃ足りないな。冷蔵庫の中に何かあるかな?」
私は娘のいうことは忘れて冷蔵庫を漁り始めた。唐揚げの残りと缶ビールがあり、それらを意気揚々と取り出した。
「とりあえず唐揚げの残りはレンジで温めて」
「ちょっと!」
突然の大声に私も悲鳴を上げそうになった。着替えを済ませてリビングに帰ってきた娘が叫んだのだ。
「お父さん、レンジ爆発するよ」
またかよ。と、私はため息を吐き出す。
「しないから」
「ううん。お父さんみたいな人がレンジ使ったら爆発する」
「本当に馬鹿だな」
私はだんだん不安になってきた。
娘は本気なのか? 心配性なのか? 小心者なのか?
それとも、馬鹿にしているのか、からかっているのか? それなら性格は最悪だ。
「母さんに似たのかな」
思わずこぼれ出た言葉に娘が黙り込む。爆発すると連呼され、私はそろそろイライラしてきていたから、娘が静かになるのは好都合だった。
「さて」
唐揚げもあったまったし、カップ麺にお湯を入れよう。ちゃんと火を消したし、爆発なんてしない。
「ああ腹減った」
妻もいないし、ビール飲んで、さっさと寝てしまおう。
どうせ妻は帰ってこない。二度と現れない。
悪魔が隠したのだから。
ソファに座り、ビールで喉を潤してほくそ笑む。
私の殺人は露呈することなく人生が過ぎていく。
「お父さん」
驚いて振り向くと、いつの間にか背後に立っていた娘が、私の顔を覗き込んでいた。
「こんな時間にビールなんか飲んで。お父さんのお腹爆発するよ」
「はいはい」
受け流して、ふと怖くなった。
娘の顔は青白く、口元は歪んでいる。
淀んだ眼がこちらをどんよりと見つめている。
(まさか本気で言っているのか?)
違和感に気づいたと同時に、爆発音がした。
「何だよこれ」
目の前にあったテレビのリモコンから煙が出ている。
「ほらね。リモコン爆発した」
歪んだ娘の口元が、柔らかな笑顔に変わっていく。
そして、続け様に2回爆発音がした。
音がした台所を見ると、やはり煙が滲み出てきた。
「ほら。言ったとおりでしょ? レンジもガス台も爆発した」
「なんでだ?」
娘は薄ら笑いを浮かべたまま何も答えない。
「おい、どういうことなんだ。お前が爆発するって言ったものが次々爆発しているじゃないか」
「だって」
訳がわからず怯える私を娘は楽しそうに見つめた。
「だって、悪魔に頼んだから」
「悪魔?」
押し入れの壺から出てきた、あの悪魔と同じか?
私の考えを見透かすように、娘は小さく頷いた。
「でも、願い事はお母さんとお父さんで3つ叶えられたはずだ。お前の分なんてあったのか?」
「これ、お母さんの願いだから」
そう言うと、娘の顔から瞬時に笑顔が消えた。
「私の願いを叶えて上げてほしいって悪魔に頼んだんだって。だから、悪魔は私の前に現れて、母親が生き返る以外のことなら何でも願いを叶えてくれるって言った」
娘は真顔で淡々と話し続ける。
母親が死んでいることを娘は既に知っていた。その事実に自分の背筋が冷えていくのを感じることしか私にはできなかった。
「死者の蘇生は無理なんだって。過去から変えなきゃいけないから」
「何を頼んだ?」
答えようとして躊躇った娘の瞳が、一瞬だけ涙ぐんだ気がした。
「その前に教えてーーお父さんは何を頼んだの?」
「お母さんを隠してもらった」
「そう」
私を見つめる娘の瞳が底暗く曇っていく。それなのに、娘の唇は微笑みを再び浮かべている。
「私は、私が望んだものを爆発できるようにしてほしいって頼んだの」
「お前が望んだもの?」
「もしも、夫に殺されるようなことが起きたら、娘の願いを叶えてほしいっていうから」
「それで、爆発を?」
「うん」
「お金とか、学力とか、そういうのではないのか?」
「だって。お母さんは生き返らない」
娘が爆発したのは、父親である私が触れたリモコン、ガス台、電子レンジ。
「お父さん。次に何が爆発するって私が言ったか、覚えている?」
私は手に持っていたビールの缶を握りつぶす。その手は小刻みに震えていた。
「ーーお父さんのお腹」
娘と眼と眼が合う。娘の眼は暗闇が深く沈んでいる。
やめてくれ。
助けてくれ。
謝るから。
そんな言葉が過ぎった次の瞬間、爆発音は響き渡った。
「母の願いの通り、娘さんの望みが叶って何よりです」
倒れ込んだ私のそばに立つ娘の肩には悪魔が座っていた。
声を上げることもできず苦しむ私を見下ろし、幸せそうに微笑んでいた。
「お母さんを傷つけないように、お母さんのいる場所を爆発できる? 見つけ出したいの」
娘が悪魔に訊ねる。
「ええ、もちろんです。ワタクシは優秀な悪魔ですから」
高揚した悪魔の声も、悲しげに微笑むの娘の姿も、爆発した私の意識からすでに消えていた。
終わり。