2
エリクが初めて辺境伯家にやってきたのは三年前。数年に一度の大規模な狩り大会が辺境伯領で開催され、彼の両親である王太子夫妻に連れられてやってきたときだ。
王太子夫妻はとても仲がよく子だくさんで、十人の子がいる。エリクは七番目の子で第五王子。この時は他に兄王子二人も一緒に辺境伯領へ来ていた。
目的は狩り大会とはいえ、まだ七歳のエリクは狩りには参加しない。大人たちが狩りをしている間、他の貴族の家の子を含め子どもは別の場所に集められ、遊んだりお茶を飲んだりお菓子を食べたりしながら過ごした。
エリクは王子という身分な上にやんちゃで活発だったので目立っていたが、特に大きな問題はなくその年の狩り大会は終了し、王都へ帰っていった。マリリーズと遊んだり話したりする機会はあったものの、エリクだけが特別だったわけでもない。貴族の世界は広いようで狭いから、いずれまたどこかで会うかな、という程度だった。
それから約一年。
なぜか辺境伯領がいたくお気に召したらしいエリクは、今度は一人でやってきた。といっても、もちろん彼は王子なので従者や世話役などは一緒だ。両親はもとより兄や姉もいないという意味での一人、である。
元々マリリーズの両親とエリクの両親である王太子夫妻は仲がよかった。そしてどちらも子だくさん。ちなみにマリリーズは八人兄弟の六番目の子で三女である。
マリリーズが聞いたところによると、エリクのやんちゃぶりに困っていた彼の母の王太子妃が「辺境伯領ならばエリクを矯正できるのかしら」なんて言って、わりと豪快な性格のマリリーズの母が「子供が一人くらい増えても変わらないから来れば」というようなことを言って、エリク本人も行きたいと言った。最初は冗談半分だったはずが、なぜか実現した、というような経緯らしい。
他にどんな事情があったのか詳しいことまではマリリーズは知らないけれど、そんな理由で王子がほいほい出歩いていいものなのかとは思うし、王子一人増えるのが「変わらない」わけがないとも思う。
そんなこんなでエリクは毎年一ヶ月弱、辺境伯家に滞在するようになった。
同じ国の中なので留学とは言わないけれど、まあ、短期留学みたいなものだという。王都とは違う自然の中で、屈強な騎士たちがひしめく領地で、しっかり成長してこい、ということらしい。
エリクは辺境伯家にいる間、なぜかマリリーズにまとわりついた。ぺらぺらと自分のことを話してはすごいだろうとドヤ顔をしてきたり、毎日ちょっかいを出してきた。
例えば、
耳元で「わっ」と大声を出して走り去っていったり(耳がじーんとした)
マリリーズの濃い茶色の髪を地味髪だと言ってきたり(しばらく地味髪マリーと呼ばれた)
足をかけてきたり(転んだ)
両手いっぱいの落ち葉を頭からかけてきたり(中に虫がいた)
柑橘のたくさん入った籠を運んでいたら手伝うと見せかけて落とされたり(ものすごい笑顔で走り去った)
マリリーズの姉や妹にはやらないのに、マリリーズに標的を定めて攻撃してくるのだ。うっとうしいったらない。
もう一度言う。
うっとうしいったらない!
ムカつく!!
マリリーズは濃い茶髪に碧い瞳。華奢な体型で、見た目だけは儚なそうな容姿をしている。だけど実際は「強くたくましきこそ正義なり」という辺境伯家に生まれるべくして生まれたという気性だ。黙ってやられ、めそめそしているような性格ではない。
当然、相応にやり返してやった。
例えば、
特に何もないけど「あーっ」と驚愕の表情を浮かべながら空を指差して何も言わずに走り去ってやったり(しばらくきょどきょどしてた)
エリクのはっきりした顔立ちを派手顔だと言ったり(しばらく派手顔エリクと呼んだ)
膝カックンをしてやったり(転んだ)
カブトムシをこっそり背中につけてあげたり(慌ててた)
木に登って「こんなところにもこられないの?」と煽ってやったり(ムキになって登ってきて落ちた)
たまにはマリリーズから先に仕掛けることもあったけれど、基本的にはやられたからやり返しているだけだ。ちょっとヒートアップすることもあるけれど、マリリーズは悪くないはずなのだ。それなのに、二人そろって叱られるのは納得がいかない。いかなすぎる。
「ムカつく!」
と鼻息荒く愚痴をこぼせば、
「エリク殿下はマリリーズのことが好きなのねぇ」
と、上の姉は微笑ましいものを見るように言った。
「はぁ?」
「好きな子は虐めたくなるって言うもの」
「意味がわからないわ」
思わずジト目で姉を見てしまった。
好きなら転ばせるようなことをしてくるはずがないじゃないか。普通は大切にしたくなるものだろう?
少なくともマリリーズは大好きなウマジールやヤギのメェ子を虐めたいとは思わない。
ある土砂降りの翌日。
庭に出ていたエリクは大きな水たまりの濁った水をぴちゃぴちゃと木の棒でかき混ぜ、波を立てて遊んでいた。マリリーズも水面にできる模様が面白くて見入っていると、その水が飛んで、マリリーズの顔にかかってしまった。エリクがハッとした顔をしたから、最初はたぶんわざとではなかった。でもかかったのだ、それも顔に。
そこで謝ったらよかったのだ。別にわざとではないと分かっていたし、そりゃちょっぴり嫌だけど、お詫びに今日のおやつをひとつもらうくらいで許してやるつもりだった。
それがどうだ。
彼は水と、もしかしたら泥もついたかもしれないマリリーズの顔を見て、「ブフッ」と笑ったのだ。
マリリーズは濁った水を手ですくうと、同じように顔をめがけてかけてやった。そして笑ってやった。
「ふふんっ」
エリクはムッとした顔をして、今度は水たまりに手をいれた。ぐしゃぐしゃと動かしてから上げた手は泥だらけだ。
「ふふふふふハハハハハ!」
勝ち誇った笑みを浮かべたエリクは、その泥だらけの手を前に出しながら追いかけてきた。もちろんマリリーズは逃げた。だけどエリクのほうが少し早かった。べちゃっとマリリーズの服に泥がついたのである。
「あ……」
エリクは追い回すところまでは考えていただろうけれど、本気でつけようとしたわけではなさそうだった。だけどついたものはついたのだ。
わざとでなければ何をしてもよいのか?
否!
もうそうなれば止まらない。
今度はマリリーズがエリクに泥をつけ、エリクがお返しだとばかりに水と泥を投げ、マリリーズも投げた。
結果、二人揃ってどろどろである。
全身に泥をなすりつけたかのように、上から下までどろっどろ。
その状態を見て王子と令嬢だと思う人はいるだろうか。
なお、二人一緒にこっぴどく叱られたのは、言うまでもない。
「ムカつく!!」
と鼻息荒く愚痴をこぼせば、
「お互い様でしょうに。似た者同士、相思相愛ってやつね」
と、下の姉は微笑ましいものを見るように言った。なんでそうなる。
そんなエリクの辺境伯家訪問も、エリクの学園入学と共になくなった。
解放されてさぞやすがすがしい気持ちになるかと思ったら、意外なことにそうはならなかった。どちらかというと……。
そういえばエリクが毎年帰ってしまうと、なんだか急にいつも過ごしているはずの辺境伯邸がいやに広く感じたのだ。エリクがもう来ないと思ったら、そこにさらに風が吹いている感じだ。
「エリク殿下がこなくなって、マリリーズは寂しいのね」
母は微笑ましいものを見るように、そしてちょっと切ない目で言った。
断じて違う、と言いたかったのに、なぜかマリリーズは言えなかった。