10
卒業した日からおよそひと月。
新たな門出に相応しい、よく晴れた日だったと思う。
エリクの乗った馬車が遠ざかっていくのを、マリリーズはずっと見つめていた。馬車の音が聞こえなくなって、祝賀モードだった周りが片付けを始めても、ぼんやりとさっきまで馬車が通った道を眺めていた。
行ってしまった。
マリリーズを置いて、遠い西の国へ。
それからどうやって自室まで戻ったのか、マリリーズは覚えていない。
泣いた。
ただ、泣いた。
目の周りが赤くなってしまうくらい、ではなく、顔全体が腫れあがるくらいまで泣いたのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「ムカつくなぁ……」
あれだけマリリーズを構い倒したくせに、エリクはさっさといなくなってしまった。
マリリーズにとってエリクは、うっとうしい存在だったはずだった。何かにつけてちょっかいを出してきて、ぎゃあぎゃあとわめいて、ふざけてきて。
だけど、そんな時間がなんだかんだいって、楽しかった。好きだった。
エリクはムカつくと思う事をいっぱいしてきたし、言ってきたけど、マリリーズが本気で許せないようなことはしなかった。いつも必ずその一歩手前なのだ。
例えば、髪色は地味だと言ってきたけれど、本気で悩んでいた細腕については揶揄ってこなかった。むしろ今くらいがいいと思うと言って慰めてくれた。
足をかけて転ばせてきたのはじゅうたんの上だった。芋虫もマリリーズが本気で嫌いではないことを知っていたし、エリクの手がかぶれた翌日にはマリリーズは触らなかったか腫れていないかと心配してくれた。
木から落ちて骨を折ったエリクを本気で心配して泣きじゃくった時は、そんなマリリーズを見てひどく慌てていた。痛いはずなのに全然痛くないと言い張って動かして医者に怒られたり、マリリーズの父の顔にある傷痕が「名誉の負傷」だと知って「これは名誉の負傷だ」と言って侮辱するなと怒られたり、なんとかマリリーズを笑わせようと必死になっていた。
その翌年にはすっかり治った腕を見せつけてきて、「マリーに折られてもこの通り跡形もなく治してやった」などとマリリーズが折ったことになっていた。「折ったのはわたしじゃない!」と言えるようになったのは、そんなエリクの気遣いがあったからだ。
マリリーズは知っている。
軽いように見せていて、本当はすごく真面目で、何に対しても一生懸命なこと。
意地悪なことを言ってきたり、わざと揶揄ってきたりするけれど、本当はすごく気を遣う人で、優しいこと。
自分が一番なように振舞いつつ、いつも周りを気にしていて、心配性なこと。
全部、知っている。
きっと、マリリーズは傲慢なんだろう、と思う。
だけど、たぶん、エリクはマリリーズのことが好きなのだろう、と思う。
一度も言われたことはない。だから違うかもしれない。だけど少なくとも嫌われてはいないと思う。
気づいていた。彼がこんな態度を取るのはマリリーズだけだって。もはや気付かないほうが無理だった。
長い時間一緒にいれば、わかることもある。
エリクはマリリーズがジトッとした目を向けると、ほんのわずかに安心したような目をするのだ。きっと自分がいなくなることがわかっているから、その時にマリリーズが悲しいと思わないように、マリリーズに嫌な奴だなと思われたままでいたかったのだ。
だったら、最初から近づかなければいいのに。
最後までムカつく奴でいてくれたらよかったのに。
『どうか、幸せでいて』
本当にずるいと思う。いなくなるくせに、幸せでいろだなんて。
マリリーズはもうとっくに自分の気持ちに気がついていた。
それを表に出したらエリクが遠ざかることも、わかっていた。だから。
だから……。
「ムカつくなぁ……本当に、ムカつく」
こんなに好きになってしまった自分が。
こうなることはわかっていたのに、止められなかったこの気持ちが。
ずるいのも自分だ。
エリクの気持ちになんとなく気付いていたのに、突き放さなかったのだから。エリクが近づいてくれるのをいいことに、知らないふりを通した。
突き放せなかった。できるはずがなかった。わかっていたのに一緒にいたいと、そう思ってしまっていたのだから。
ずっと心に秘めていた思いが次から次へとあふれ出し、涙はいつまでも止まってくれなかった。




