時代遅れ
「今お帰りですか?奇遇ですね」
本田雅治は出張からの帰宅の電車で運良く座れたことに喜んでいたときに、隣から声をかけられ、相手がわかると内心顔を顰める。
「私はいつも深夜まで忙しいのですが、今日は早く帰れてよかった。
働き方改革とは言いますが、重要なポストにいると仕事が多忙でね。
毎日こんな時間に帰れる本田さんが羨ましい」
(いきなり自慢か)
話しかけるのは近隣に住む前田という男だ。
大手の新聞記者で自分や家族の自慢をよく喋る。
面倒だが、近所付き合いで無視もできない。
昇進したとか、新車に買い替えたとか、子供が有名私立に入ったとかいう話に相槌を打ちつつ、雅治はここに座るんじゃなかったと後悔していた。
「ところで、お子さん、勇司君と言いましたか。
この間、庭にいると聞こえてきましたが、男なら泣くんじゃない、男の涙は親が死んだ時だけだとかまた時代遅れなことを言われてましたね。
このジェンダーレスの時代にそんな教育はありえませんよ。
うちの新聞でもそういう遅れた人の啓蒙のために、現代の男らしさについて連載しているんですよ。
読んでないですか?」
あれは、剣道の試合で負けたときか、勇司が悔しくてあんまり泣くのでそんなに悔しければ泣くよりももっと練習したらいいと言ったかな。
そう言えば新聞では男らしいと言うなとか、男でもスカートをはいていいとか、そんな記事は見たことがある。
まあ、俺には関係ことだ。
雅治は面倒になり、「我が家の子供は親が教育しますので」
と話を打ち切ろうとする。
しかし、「あんたみたいな人がいるから日本は変わらないんだ!
我が家は男も女も同じように教育しているぞ。
ジェンダーレスという言葉を知らないのか。
性別で差別する時代じゃないんだ。
あんた、子供をどうしたいんだ。
そんなことを教えていては世の中についていけないぞ!」
と叫びだした。
よく見ると顔が赤くて酒臭い。
(こいつ呑んできたのか)
まだ家まで時間がかかる。もう逃げよう。
「議論はやめましょう。周りに迷惑だ」
「はっ!
言い返せる理屈がないんだろう。
土建屋じゃしょうがないな」
雅治は建設会社に勤めているが、侮蔑される覚えはない。
少しムカついて、言わずにいいことを言ってしまう。
「一言だけ言っておこう。
あんたらマスコミは男女平等にしろというが、現場はそうじゃないんだ。
治安の悪い場所、熊が出るような現場、外国人のガタイのデカい男達を使う工事、危ないことは丈夫な男がやらなきゃ仕方がない。
すべての仕事が机の上のパソコンで済むと思うな。
世の中に好きなことを喋るのはあんたらの仕事だろうが、人の家や仕事に口を出さないでくれ」
そう言って立ち上がる雅治の腕を、前田は掴み、酒に酔った目で睨みつける。
「できないと言わずに女でもやらせればいいだろう。
新聞社だったらな…」
「殺されたり、強姦された時にあんたが責任取ってくれるのか。
何故安全を確保しなかったと責めるだけだろうが」
前田の言葉を遮り、雅治は小声で言うが、前田は大声で言い返す。
「そういうのは警察の仕事だ。
男だから危険に立ち向かうというのは古いんだよ。
子供には何かあれば我が身を第一に逃げて、警察やそこの責任者に任せろと言ってある」
「あんたらの教育が行き届いていれば、タイタニック号で助かったのは男ばっかりだったろうな」
雅治はそういい捨てて、なにか言いかける前田の手を振りほどき、隣の車両に移り、立って本を読み始めた。
しばらく読書に熱中していた雅治はわめき声に気が付かなかったが、隣りの車両から叫び声が聞こえる。
(何だ?)
車両のドアが開いて、乗客が走ってきた。
「キャー、痛い!」
「危ない!刃物を振り回しているぞ!」
逃げてきた方角から泣き叫ぶ声や悲鳴が聞こえる。
後ろから走ってきた前田は前にいた老婆や子供を突き飛ばし、一目散に逃げていく。
雅治は、棚に置いていたジャンパーを掴み、逃げ出す人々と逆の方向に歩いていく。
隣の車両に行くと、泣いている子供を抱いた若い母親が腰が抜けたのか尻餅をついて必死に後ろに動こうとしている。
その前には「俺をバカにしやがって」など理由のわからないことを言いながら、血走った目で包丁を振り回す中年の男。
雅治は海外の現場で何度も修羅場をくぐっていた。
片腕にジャンパーを巻きつけ、もう片手に単行本を持ち、前に出る。
「こっちだ。そのむさくるしいオッサン。
俺が相手をしてやる」
「お前が俺の悪口を言っているのか!」
包丁を振り回す相手の手を見て、その腕の内側を本で強打すると包丁はストンと落ちた。
そのまま、腕を捻り上げて雅治は次の停車駅で男をホームに引き摺り出し、駆けつけてきた駅員と警官に渡す。
(刃物の使い方が上手ければジャンパーを犠牲にと思ったが、無事でよかった。
カミさんにバレなくて済む)
雅治がそのまま警察署で事情を聞かれてから、外に出るとマスコミがたむろしていた。
「本田さん、お手柄でしたね。
どんな気持ちで男に向かわれましたか」
真っ先に聞いてきたのは逃げ出した前田であった。
ちょうど現場にいるということで取材に来たのか。
腹の減っていた雅治は早く帰宅すべく無言で立ち去ろうとするが、気が変わった。
「前田さん、さっき子供にどんなふうになって欲しいか聞いてましたね。
こんな時に女性や子供、お年寄りを先に逃がしてやれる男らしい男、いやこれは今風じゃないか、人らしい男になって欲しいと思いますよ」
そして呆然とする前田を残し、そのまま足早に立ち去った。
後日、一連の有り様がユーチューブから流され、前田は『言行一致、真っ先に逃げ出すジェンダーレスの記者』と週刊誌に書き立てられ、面目を失った。
それからは顔を合わせても話しかけてこない前田を見て、雅治はほっとしている。