隣国の侵攻 4
人の気配で意識が浮上する。目を開けるまえに、ディランの耳に歌声が届いた。
(……この歌、どこかで聞いたか……?)
知らない歌のはずだが、なぜか懐かしく感じる。
いつか聞いた気もするが、ディランは幼いうちから母親と縁遠く、子守歌を唄う乳母がいたこともなかった。
(いや、今は……助かったようだな)
ひとまず疑問は置いて、目を瞑ったまま自分の体の状態を確認する。
――部下を助けようとして、国境の森で魔獣に切って掛かった。ディランの剣が届く寸前、魔獣の鋭い爪が襲った。
そのとき、胸元に入れた守り袋が光ったように見えた。
(魔物の下敷きにはなったが、それで済んだのか)
軽く力を入れると上半身が多少痛むものの、酷い怪我を負ったわけではなさそうだ。
あの爪に切り裂かれていたら、無事では済まなかっただろう。負傷せずに、逆に魔物を斬ることができたのは、運がよかった。
(そういえば前も、光っていたとカイルが言っていたか)
塔の近くに現れた刺客との対戦中だった。あのときも、襲ってきた人数を考えれば随分楽に片付けられた気がする。
窮地に陥るたびに反応があるなんて、昔話の加護のようではないか。
(……ありえないな)
天寵など伝承だ。加護を持つ者だって記録にしか残っていないと、自分で自分の考えを却下した。
ゆっくり息をしてそっと目を開ける。窓から入る光を背に受けて、額に載せていただろう布を桶の上で絞る誰かが見えた。
「――っ!?」
それはかつて、ステットソンの援軍として参加した戦いで受けた傷を癒やしてくれた少女で――。
「あっ、ご領主様! よかった、目が覚めたんですね!」
息を呑んだディランに気づいてパッと顔を輝かさせたのは、コーネリア――リリーだった。瞬きで先ほどの面影は消えて、どこからどう見ても貴族令嬢のコーネリアだけが視界に映る。
(……見間違いか?)
まったく似ていないのに、しかも片一方は幼い頃の姿なのに、どうして印象が重なるのかわからない。
横になりながら首を傾げたディランを、唄うのをやめたリリーが心配そうに覗き込んでくる。
「どこか痛いです? お医者様を呼びましょうか」
「……いや、いい。どうしてここに?」
とりあえず見間違いだったということにして、ディランは先に疑問に思ったことを口にする。さっと見回せば、ここは本館のディランの私室だ。
塔にいるはずのリリーがどうしてここにいるのか、まずはそれを知りたい。
「あの、イスタフェンが攻めてきたって聞いて、炊き出しの手伝いにきました。そしたらご領主様が搬送されて、アーサーさんとカイルさんが、居合わせた私に看病を任されて――」
リリーは言いにくそうにポツポツと話す。
「お、怒ってますか?」
「なにを」
「塔から勝手に出てきたので」
しおしおと肩を小さくして上目遣いで言われ、ディランはぐっと口ごもる。
「き、緊急事態だったでしょう? だからコーネリア様に、私になにかできないかって相談して、それでお料理なら――」
「ああ、いい。勝手なことをしたと理解しているなら、俺からほかに言うことはない」
「……よかったぁ」
怒られないと分かったからか、リリーはあからさまにほっとした。
へにゃりと笑み崩れたその表情が、またさっきの少女と重なる。
(――どうしてだ?)
救護所の少女は、ステットソン伯爵の令嬢ブリジットだと聞いた。コーネリアでもリリーでもないはずなのに。
痛む頭を押さえようとすれば、慌てたように冷たい布が置かれる。息を吐いて、ディランは別のことを口にした。
「……さっき、なにか歌っていなかったか」
「わっ、もしかして私の歌で起こしちゃいましたか。ごめんなさい、暇だったのでつい」
看病を申しつかったものの、ディランは大人しく寝ているし額の布を取り替えるくらいしかすることがない。
裁縫道具は塔に置いてきてしまっていたので、暇つぶしに覚えている子守歌を片っ端から歌っていたのだと、リリーは打ち明けた。
「別に構わない。どこかで聞いた覚えがある歌だった気がするんだが、思い出せなくて」
「子守歌ですから知っていておかしくないですけど……もう一回、歌いましょうか?」
「そうだな、頼む」
冗談のつもりだったのだろう。提案を受け入れたディランに、リリーは驚いた顔をした。
子守歌を強請るなど自分でも意外だが、さっきから自分の視覚も記憶もあやふやで、なにかひとつでも確信がほしかった。
促されて、リリーは歌を口ずさみ始める。ゆったりとした曲調はいかにも子守歌で、歌詞も幼子を寝かしつけるそれだ。しかしなにかが記憶に触る。
(やはりどこかで……いや、まさか)
曲自体は長くない。あっという間に歌い終わったリリーに歌について尋ねると、にこやかに話し始める。
「有名な歌か?」
「うーん、有名かは分かりません。私は、シスターたちが歌ってくれて覚えました」
「そうか」
「そういえば、流行の歌は知らないので、こういう子守歌とか賛美歌ばっかり歌っていますね」
「修道院の外でも、普段からこの歌を?」
「え? ええ。鼻歌ってそういうものでしょう?」
不思議がるリリーに、質問を重ねる。
「……炊き出しの手伝いをしたそうだが」
「ああ、はい。修道院では毎日料理をしますし、救護所のお手伝いで炊き出しをしたことがあったので、少しは役に立てるかと」
「救護所?」
「は、はい」
気になる単語に勢い込んで言葉を遮れば、ぎょっとしたふうに体を引いて、リリーは頷いた。
「ギルベリア修道院が炊き出しをしていたとは聞いていない」
「修道院としてではないです。ええと、ステットソン領に侵攻があったときに――」
「待て、いつのことだ」
「んーと、大分前……たぶん十年くらい前でしょうか。ブリジット様に言われて、半月くらい救護所のお手伝いに行きました。ステットソン伯爵が修道院を援助してくれていたので、頼まれたら断れなくて」
(十年前、ステットソン侵攻時の救護所……)
「救護所は薬もベッドも足りなくて……人手も足りなかったから、子どもの私でもやれることが一杯ありました」
リリーが言う救護所の様子を聞くうちに、記憶がはっきりと蘇ってくる。
古びた隔離部屋で手当てをしてくれた少女はフードを被って、髪色は分からなかった。だが、苦しむディランを心配そうに覗き込む瞳は新緑の色で――。
(あの少女が、今の歌を唄っていた……)
がばりと起き上がる。治したばかりらしい傷が痛んだが、気にもならない。
「わわっ、ご領主様っ? 急に動いちゃ駄目ですよ! 骨が折れてたんです、治癒魔法でくっつけたけど『安静に』って言われて――」
「リリーなのか……?」
「え? はい、私はリリーです」
目の前にいるのはコーネリアなのに、口にするとますます面影が重なる。
省きすぎたディランの質問の意味は伝わらず、リリーは肯定しつつ首を傾げた。
「いや、そうじゃなくて……リリー、瞳の色は何色だ? コーネリアではなくリリー本人の、修道院にいる体のほうだ」
「わ、私の? ええと、目は緑ですけど、あっ、コーネリア様みたいな美人を想像しないでくださいね! 私、めちゃくちゃ平凡顔なので!」
慌てて手をぶんぶんと振られるが、ディランはそれどころではない。妙に騒がしい心臓の上から服を掴んで、さらに確証を得ようとする。
「……ブリジット・ステットソンの外見を知っているか?」
「ブリジット様ですか? 髪は金色で、瞳の色は明るいブラウンです。お綺麗なご令嬢ですよ」
きょとんとして答えるリリーを食い入るように見つめる。コーネリアの紫色の瞳の奥に、本人を探して。
「あの、ご領主様?」
寝台に起き上がったまま、ディランは握りしめていた胸元を探る。内ポケットから取り出したのは、守り袋だ。
「あ、これ……」
「見覚えがあるな?」
「ええ、私が作りましたから」
新しいほうはそうだ。先日、目の前の本人から直接渡されたから。
もうひとつの、支援の礼として毎年ステットソンから贈られてくる守り袋は、ブリジットが縫っていると手紙には書いてあった。
だがリリーの視線は、両方の守り袋に注がれている。
「こっちのもご領主様が持ってくださってたんですねえ。市で買いました?」
「市?」
「守り袋を作れって、毎年ステットソンから頼まれてシスターたちと一緒にたくさん縫うんです。細かい刺繍をたくさんってリクエストなので、結構大変なんですよ。これは特にがんばったやつですね。ほら、こことかステッチを変えているんです」
古いほうの守り袋を指先で触れながら、どこをどう工夫したかなど縫い方も披露してくる。
「あれ、でも……市に卸したり王都で配ったりしているのかなって思ったんですけど、ステットソン用に作ったこれは、フォークナーの市には並ばないですよね」
じゃあどこで、とリリーは不思議そうに首を傾げた。その表情にも声にも裏はなく、嘘を吐いている気配はない。
「……そうだったのか」
「はい?」
「いや、なんでもない」
実際には修道院にいるリリーとブリジット本人にも会ってからでないと断定できないが、ディランの勘は今感じていることが事実だと告げている。
あの少女は、リリーだ。
そう考えると、色々なことが腑に落ちる――入れ替わりに気づかずコーネリア本人だと信じていた時も憎みきれず無視できなかったこととか、別人と判明してからは内心の警戒も下げてしまっていたこととか。
長年焦がれた恩人が目の前にいた。よりによって、王命の妻の姿で。
(……裏取りは必要か)
まじまじとリリーの顔を見る。気まずそうにされて、それでも見つめていると顔ごとを逸らされてしまった。
落ち着かない気持ちを隠せていない表情は、コーネリアではなく本来のリリーのものだろう。そういえばあの少女も、思っていることが全部顔に出ていた。
(あの時、救ったのが俺だと……気づいていないな、これは)
きっとリリーにとっては、大した事ではなかったのだろう。事実あの少女は救護所でたくさんの怪我人の世話をしていた。
ディランはそのうちの一人にすぎない。
ステットソン伯爵には救命の礼を伝えてある。こちらの思い違いに気づいているだろうに正さずにいるのは、恩に着せておけば支援を引き出しやすいからだ。
いいように利用されていたことは腹立たしいが、しっかり確認をしなかったディランの手抜かりが原因だから責められない。
だが、今後は別だ。
「リリー。ステットソンと修道院の関係を聞きたい」
「え、関係ですか? 私はあんまり知らなくて……院長が詳しいですが」
「知っている分でいい」
「はあ、まあ、それなら……」
リリーがぽつぽつ語る長くない話を聞き終わるころ、カイルとアーサーがやってきた。
「あっ、ディランが起きてる!」
「はっ!? すみません、お知らせするの、すっかり忘れてました!」
「まあ、そうだと思ったよね」
「予想通り」
「お二人とも、ひどいっ」
がばりと頭を下げるリリーを、カイルとアーサーの二人が笑って揶揄っている。
そういえば、ディランと同じくらい他人を警戒するこの二人が、わりと早い内からリリーに好意的になっていたのも無関係ではないかもしれない。
「……アーサー、話がある。カイルには後で話すから、リリーを塔に戻してきてくれ」
いろいろと判明したことを頭の中で整理しながら、部屋を出て行く二人を見送った。




