束の間の平穏 2
――ここしばらく、辺境領は非常に落ち着いていた。
穏やかな天候が続いて降雪が一休みしているだけでなく、国境の森の魔獣も大人しく討伐もない。いつかの、複数の魔獣が出現した異常事態の日が遠く感じられるほど静かなものである。
そうはいっても、のどかなのは麓のフォークナーだけで、今日もギルベリア修道院がある山頂は雪雲がかかっている。
毎年恒例で降り続く雪は今頃、修道院をすっぽり包むほどに積もっているだろう。
リリーはあれから、コーネリアとロザリオを通して話すようになった。
ディランが持って行ってしまう晩もあるから毎日ではないが、手元にあるときにはほぼ毎夜、こちらから声をかけている。
入れ替わり自体はバレてしまったが、シスターたちにコーネリアと王家のあれこれを明かすことは避けたほうがいい。なので、魔力を魔石に込めてくれるシスター・マライア以外にはリリーと話ができることも秘密なのだそう。
院長たちに無事だと伝えたいが、そもそも「リリーなら大丈夫だろう」と、ほとんど心配されていないらしい。
『だってあなた、崖から落ちたのに呑気にキノコを干していたんですって? そんな人を誰が心配するのよ』
「あうっ、黒歴史ー!」
日頃の行いのせいで、謎の信頼が生まれてしまっていた。逞しいのもほどほどにしようと誓うリリーであるが、過去は消せない。
心配していた冬支度は、ディランが持たせてくれた援助物資で充分間に合う見込みだという。それに、ロイのおかげで壁に空いた穴も屋根の補修も無事に済んでいるそうだ。
隙間風もぐっと減り、ここ数年で一番過ごしやすい冬だと院長も言っていると聞いて、リリーはかなり安心した。
『だからといって、ギルベリア修道院がド貧乏なのは変わりませんからね』
「はい、それはもう! 私、戻ったらもっともっと頑張ります!」
『あなた一人が頑張ったところで高が知れているでしょう。もっと抜本的な解決をしないと意味が無いわ』
「そ、そうなんですけど……」
呆れた声に、しょぼんと項垂れる。そんなこちらを見越したように、コーネリアは「それで」と言葉を継ぐ。
『院長にも伝えましたけれど、あなたたちが修道院で作って市で売っている菓子や小物があるでしょう。まずは、それらの値段を上げますから』
「えっ?」
『え、じゃないですわ。なんですの、この三十年前の価格設定は。王都でこの質なら、最低でも二倍の値がつくというのに』
「えええっ!? で、でも、ここは王都じゃないですし……」
『お黙り。一番若いあなたがそれですもの、まったくお話になりません。現代の経済感覚をシスターたちに叩き込んでおきますから、今度からはきちんと利益を出すことね』
断言されてリリーは呆気にとられる。
たしかに、市に持っていくたびに「安いね!」とは言われていたが、同じものがほかではいくらで売っているかなんて調べたことがなかったのだ。
(でも、二倍? ……ははは、まさか、そんな)
ここは辺境だから、王都の価格そのままというわけにいかないだろう。
それでも、少しでも収入が多くなるのならと期待を持ってしまう。でも――。
「値段を上げて、買ってもらえるでしょうか……」
『馬鹿ね。そうやって良い物を作っただけで満足して売り方を工夫しないから、いつまでも貧しいのよ』
苦言が耳に痛い。けれど心に痛くないのは、コーネリアの厚意が伝わってくるからだ。
「な、なら、どうすれば――」
『だから言ったでしょう、こちらのことは任せなさい』
「でも、コーネリア様にそんなことまでお願いしていいのでしょうか」
『少なくとも、あなたが一人で無駄に努力するよりはずっといい結果が出るでしょうね。だいたいこの程度、わたくしが七歳になる前に受けた勉強内容ですわよ』
「七歳? なんて英才教育!?」
さすがすぎてリリーの口がぽかんと開く。院長の許可も取っていると聞いて、もうすべておまかせしますと諸手を挙げれば、ようやくコーネリアも満足したようだ。
コーネリアは修道院の様子は教えてくれても、最初の晩にディランと話したような不穏な内容についてはリリーに話さない。
リリーが気に掛ける修道院のことだって、問題ない、心配ないとばかり言う。
実際、離れているリリーが修道院のためにできることなどないのだが、麓の領地でぬくぬく暮らしている引け目を感じてしまう。
『わたくしだって、厄介なことをあなたに押しつけてばかりいるわけにはいかないの』
けれどコーネリアはいつもこうして、まるでリリーのほうが酷い目に遭っているように言うのだ。
(ぜったいに優しいよね)
今もディランには「コーネリアは優しい」というリリーの意見に反対するが、こればかりは譲れないと思う。
「厄介だなんて、入れ替わってしまったのは不可抗力でしたよ」
『甘いことを言うんじゃないわ、結果がすべてよ。また刺客がきたそうじゃない、あなたは修道院のことなど気にしないで、しっかり生き延びなさい』
「刺客!? えっ、ちょっ、そ、それ……っ?」
――聞いていない。
昼も夜もここ最近は平和そのものだったはずだ。
思わず立ち上がったリリーに、ロザリオの向こうでコーネリアが小さく咳払いをしたのが聞こえた。
『リリー、今のは忘れなさい』
「そんなわけには! し、刺客って本当ですか! ちっとも知らなかったですよ、私!」
『気づく前に済んでいたのなら、その程度の小物だったということよ。それにしても、たいした過保護ぶりね、あの男……』
「えっ。ごめんなさい、聞こえません」
『なんでもないわ。これ以上、この件に関して話すことは許しません』
「そんなっ」
『リリー』
「は、はいぃ……」
名前を呼ばれただけでひれ伏したくなる声音に押されて了承する。
(私の声のはずなのに、どうしたらこんなに威厳たっぷりになるのかなぁ)
せっかく声も姿も美しいコーネリアになったリリーは逆に「うん、やっぱりリリー姉さんだ」などとティナに言われているのに。
この差はなんだろうと考えていると、コーネリアが話題を変えてきた。
『それはそうと、あなたの刺繍は部屋にあるだけ?』
「刺繍……守り袋のですか? えっと、そうですね。端切れに刺した分は、作業室にも少し置いてあったと思います」
『分かったわ。使わせてもらうわね』
「構いませんが……」
『リリーはそちらでも守り袋を縫っているんですってね』
「はい、部屋にばかりいるので、裁縫道具を差し入れてもらいました。すっごく豪華なお道具で、ハサミも宝石みたいなんです」
悪用防止の魔術は掛かっているが、見た目は綺麗で使い勝手もとても良い。
思わず声を弾ませたリリーに、コーネリアがふっと笑った。
『そんなもので喜ぶなんて、相変わらず単純ですこと』
「料理や裁縫だけでなく、もう少しくらい役に立ちたいんですけど……」
『分不相応な行動は迷惑よ。あなたはそこでなにかする前に、必ず誰かに相談なさい。わたくしの姿で勝手は許しませんからね、返事は?』
「ううっ、はい、分かりました……あ、そういえば、シスター・マライアは――」
『あら、もう遅いわ。ではね、リリー』
「コーネリア様? 待って――あぁー、また聞けなかった……」
シスター・マライアの名前を出したとたん、有無を言わさず通信を終了されてしまった。
礼拝室にある十字架の魔石に魔力を込めているシスター・マライアのことを、ディランはかなり気にしている。
リリーが彼女について知っていることは多くないが、どこまで話していいか、なにか話してほしくないことがあるのかを確かめたいと思っているのだが、毎回うまく躱されてそれができない。
「……話させてもくれないっていうことは、私は関わるなっていうことなんだろうけど……それに、刺客って……」
コーネリアもディランも、極力リリーを騒動から離しておこうとしているのが、その態度から伝わってくる。
コーネリアは今もリリーを「巻き込んだ」と思っているのだろうし、ディランは圧政を敷く実父を廃したほどの正義感を持つ人だから、やはりリリーを「被害者」と認定しているのだろう。
たしかに巻き込まれたかもしれない。でも、リリーは自分も当事者だと思う。
別人と分かる前から、コーネリアに対して殺気を飛ばしながらも無茶はさせなかったディランのためにも、自分のことよりリリーを優先するコーネリアのためにも、なにか助けになりたいと思うのに。
「……私に、なにができるかな……」
外見は侯爵令嬢でも、中身はしがない見習い修道女。
魔力はやっと暴走させない程度の操作ができるようになったところだし、本物のコーネリアのような機転も指導力もない。
ただ塔にいて、日に一度散歩と料理をするだけだ。
春まで生き延びればそれでいいとコーネリアは言うが、修道院のためにコーネリアがしてくれている事を思えば、とても足りないだろう。
なにかないかと思い悩みながら、リリーはひとまず裁縫道具を手に取る。これまで作った守り袋はかなりの数になり、ディランたちだけでなく、順番で扉前に立つ兵士にもそれぞれ贈った。
嫌がらず、むしろ喜んで受け取ってくれたのは嬉しかったが、気休めにしかならない守り袋以外にもできることはないだろうか。
(……この守り袋が、本当に皆を守ってくれたらいいのにな)
そんなことを考えたからだろうか。
翌日早朝、普段は聞こえない物見の塔からの警告の鐘の音が、リリーがいる部屋までも響いてきて目が覚めた。




