疑惑と急襲 2
「――ック。デリック?」
はっと我に返り意識を戻すと、白い息を吐きながらこちらを気遣わしげに見上げる薄紫の瞳と目が合った。
(コーネリア……そうだ、今は散策の途中で――)
魔物討伐の後に三人で話した晩のことを思い出していたらしい。引き摘ままれた袖口に一度瞬きをして、おもむろに口を開く。
「……なんだ」
「『なんだ』じゃないわよ、何回も呼んだのに。やっぱり体調が悪いんじゃない?」
何気ないふうを装ったが、ぼんやりしていたことは見抜かれている。偽名で呼ばれたとはいえ、すぐに反応できなかったのはディランの失態だ。
白々しい返事に対して、心配そうな声音が居心地悪い。
(相変わらず、ただの一兵士に対して「コーネリア・ウォリス」が取る態度とは思えないな)
コーネリアは生粋の侯爵令嬢である。未来の王子妃として王族同等の教育を受けており、身分差への意識は強く、自尊心も高い。
だというのに、ディランのぞんざいな言葉遣いに眉をひそめる事もなく、メイド用の外套を喜んで身につけ寒い外を歩きたがる。
今日も小雪が舞う中、楽しげに塔の部屋から出てきたところだった。
(それでも、猫を被っているようには見えない)
友好的な態度は、こちらを油断させるための芝居に違いないと思った。
しかし日を追うごとに見えてくるのは、貴族らしからぬ一面ばかり。
(噂のほうが間違っていたとか、似ているだけの替え玉というのなら頷けるが)
よく似た別人という可能性は、真っ先に否定された。複数人から「本人である」という証言を得ているし、なにより魔力という動かしがたい証拠がある。
噂だってそれこそ何年分も積み重なったもので、こちらに来てからの日数のほうが誤差といえるほど。信憑性なら噂に軍配が上がる。
「本当に大丈夫? この前の魔獣討伐から戻ってきてからのあなた、どこかおかしいわ」
心配そうな表情はどこまでも真剣で、そこにあるのは「デリック」への気遣いだけ。
おかしいのはコーネリアのほうだ、と言いたいのをぐっと呑み込んで、ディランはさりげなく離れようとするが。
「そんなことはな――」
「あるでしょう! 今みたいに急にぼーっとしたり、昨日なんてお皿を落としたり。やっぱり疲れているのよ。少し塔に来るのをお休みしたら?」
否定の言葉と一緒に、コーネリアはディランとの距離を逆に詰めてくるからどうしてか落ち着かなくて、思わず一歩下がってしまう。
コーネリアは相変わらず体力がない。
すぐに歩けなくなるし、午前中はたいがい顔色が悪い。ティナの報告書には体調不良を隠している様子が見受けられるとも書いてある。
そんな自分を棚に上げて、こちらの体調ばかりを心配する意図が摑めない。
「俺が来ないと、外にも厨房にも行けないぞ」
「一日や二日、構わないわ。あなたの体のほうが大事よ」
あれだけ部屋の外に出たいと言って、実際にディランが迎えに来るのを心待ちにしているのは傍目にも明らかだ。
なのにあっさりと翻されるから、ディランは怪訝な顔になる。
――やはり、分からない。
把握していたコーネリアの人となりと、目の前のコーネリアが重ならない。
王都で見かけたコーネリアに感じた嫌悪と警戒が、目の前のコーネリアにはない。
それならば無視すればいいのに、どうしてか気にかかって目で追ってしまう。
自分の感情をコントロールし慣れているディランにとって、国境の森に現れる魔獣よりも、この名ばかりの妻が難題であり、ゆゆしき事態だった。
(本人と向き合え、か)
2年前までは、父を討つことだけに専念して脇目も振る余裕がなかった。
簒奪は為ったものの、フォークナーはこれからである。先へ進むために清算が必要なのは、隣領との関係だけでなくディランもだ、とアーサーは言いたいのだろう。
だが――。
「……俺のことより自分の足元を気にしろ。また転ぶぞ」
「えー、その言い方って、まるで私が毎日転んでいるみたいじゃない。氷を踏んで滑ったのは一回だけなのに」
「しょっちゅう雪に足を取られているじゃないか」
「それは、だってこの体にまだ慣れてなくて……あっ」
「なんだって?」
「な、なんでもない、今のなし! 躓くことくらい誰だってあるでしょっ」
聞き取れなかったが、なにか失言をしたらしい。
コーネリアは慌ててこちらに背を向けて、また雪道を進み始める。分かりやすくごまかされたが、ひとまず距離が離れてディランは軽く安堵の息を吐いた。
黙っていれば近づきがたいほどの美貌なのに、口を開くと親しみやすさばかりが感じられるのも妙な話だ。
北風に顔を上げ、数歩後ろをついていく。と、コーネリアがはたと足を止めた。
(またか)
お決まりになった散策の道筋。暴漢に襲われた山が見えるこの位置で、コーネリアは必ず立ち止まる。
そして、短い休憩を取りながら小さく聖句を呟き、そっと胸元に手を当てるのだ。
一心に見つめる先の山にあるのは、ギルベリア修道院……コーネリアを庇って重傷を負った見習いシスターがいるところだ。
一介のシスターに同情など寄せるはずのない令嬢の真意が分からない。
祈る横顔はどこか寂しげで、同時になにかを決意しているようにも見える。その理由を今日こそ確かめようと声をかける寸前、殺気を感じた。
「伏せろ!」
「ひゃっ!?」
警告を発すると同時にコーネリアを抱き抱えて雪にうつ伏せる。
同時に魔術を展開して頭上に出現させた防御の楯に、数本の弓矢が音を立てて当たって落ちた。飛んできた方向の林に目を向けると、襲撃者が二の矢をつがえているのが見えた。
舌打ちをする間もなく、塔の陰から顔を隠した数人の男が躍り出る。
「このまま伏せていろ」
「なっ、え……っ!?」
動揺に顔色をなくしたコーネリアに動かないよう告げて、立ち上がりながら腰に佩いた剣を抜く。
迷いなく襲撃者を切り捨てるディランと鮮血に染まる雪に、コーネリアが息を呑んだのが分かった。
(……っ)
胸の内で悪態をつく。
領内外の動きを偵察している部隊からの報告で、近々襲撃の可能性があることは分かっていた。
一番隙ができるコーネリアの散策中を狙うだろうということも予想通りだ。
誤算は、内通者かつ手引き役であるはずのコーネリアに、襲撃に対する予見や彼らに加勢する様子が片鱗も感じられなかったこと。
それが意味することは――乱闘中だというのに気が逸れた隙を突いて、コーネリアに鋭い一撃が迫る。
剣の柄を持ち替えて叩き落とせば、反動で切っ先がディランに向いた。
だが、確かに掠ったはずの刃は運良く紙一枚の差で届いておらず、手応えを感じ勝利を確信した敵の顔が驚愕に歪む。お返しにと剣を振り下ろした。
(考えるのは後だ)
気を引き締めたディランにとって、この程度は急襲とも言えない。異変を察知した警備兵が駆け寄って来る前に、動ける敵はもういなかった。
息も乱さないまま剣を下ろし、ディランは林へ視線を向ける。そちらではカイルが射手を拘束していた。
「ディラン様」
「連れて行け。まだ息のある者には尋問をして、首謀者を吐かせろ」
「はっ」
林にいるカイルの元にも兵士が向かう。
――奇襲は失敗に終わらせたが、ディランの表情は晴れない。
襲撃者の殺気はディランよりもコーネリアに多く向けられていた。それはつまり、コーネリアが狙われているということだ。
(むしろ俺はついでで、コーネリアを第一標的にしていたな)
そのコーネリアは初めて人が斬られたのを見たかのように、今も雪の上に座り込んだまま両手で口元を押さえて震えている。
宰相の娘であり、王太子の婚約者である彼女への襲撃など、珍しいことではないだろうに。
ディランの胸にまたひとつ違和感が積もる。
「……お前、王都でなにをした?」
コーネリアが王太子の婚約者から降ろされたのは、ほかにディランの元に送り込む者がいなかったからだと判断していたのだが、違うのかもしれない。
脱げた帽子もそのままに詰問しようと振り向くと、コーネリアは狼狽えて、小刻みに震える指をディランに向ける。
魔力での攻撃を一瞬警戒したが、はくはくと言葉を探す唇が発したのはまったく違うことだった。
「そ、その髪は……?」
「髪? ……ああ」
風に吹かれてはらりと落ちて、髪が元の黒色に戻っていたと気づく。
防御の楯を作ったときに、自身にかけていた変身魔法が解けたのだ。
ディランの使った変身魔法は髪の色を黒から金に、目の色をアイスブルーから茶色に変えただけのもの。顔立ちや声はそのままだ。
子供だまし程度の変化でも疑うことすらしなかったのは、コーネリアがこれまでディランと面識がほぼなかったからだろう。
困ったように首を傾げて見上げる視線に耐えかねて、ふっと顔を逸らす。
「あの、デリック?」
「……悪い。デリックは偽名だ」
「え? そんな、じゃあ……い、痛……っ」
「コーネリア?」
強制的に正体を明かすことになったが、頃合いなのだろう。腹をくくったところ、コーネリアはさらに血の気が引いた顔で腹を抱えて蹲った。
(全部防いだはずだが、もしかして攻撃が当たっていたのか?)
ディランが傍に行こうとすると、声にならない悲痛な呻きとともにコーネリアの魔力が一気に立ち上る――魔力暴走だ。




