侯爵令嬢との出会い 1
ロバに牽かせた荷車に乗って、リリーは荒れた細道を慎重に下る。冷え切った早朝の風がやや温む頃には、だいぶ傾斜も平坦になってきた。
修道院から麓までの道は、ラクではないが熟知している。
話し相手がいなくて少々寂しいこと以外、道のりは順調だった。
(んー、このどんよりな雲が晴れてくれれば言うことないんだけど……あれ?)
道中も半分が過ぎたところでリリーは珍しい光景を目にする。
少し先で、一台の豪華な馬車が立ち往生していたのだ。
(まさか、ステットソン伯爵?)
誰かと行き会うことなど滅多にない山道に、貴族が乗っているとしか思えない立派な箱馬車が一台。
その馬車の向きはリリーと反対、つまり山頂を目指している。
長いことご無沙汰の伯爵が、このタイミングで修道院へ抜き打ちチェックに来た可能性にリリーはぴしりと固まった。
(だ、大丈夫! もし伯爵だったとしても、私のことなんかぜったい分からないはず)
リリーは、このあたりでは少々珍しいローズベージュ色の髪をサッとウィンプルに押し込む。
髪さえ隠してしまえば平凡顔の修道女。伯爵が修道院の全員を知っているわけがないから、こちらから馬鹿正直に名乗りさえしなければバレはしない。
本当は声も掛けずに通り過ぎたかったが、狭い山道である。工具を持って車体の下を覗き込んでいた馭者の男性に、リリーはすぐ気づかれてしまった。
目まで合ったら無視をするのは不自然だ。
何気ないふうを装って話しかけるしかなくて、リリーはにこりと無害そうに微笑む。
「こんにちは、故障ですか?」
「ああ、シスターか。ご苦労さん。長旅と山道で車軸がやられてしまってね」
「あらら、それは災難ですねえ」
人の良さそうな初老の馭者は不審に思わなかったようで、普通に返してくる。
(よし、疑われていない!)
ほとほと困った様子で額に汗を浮かべている彼には悪いが、ほっとしてしまった。
(修道院に来たわけじゃなさそうね。でも、念のため……)
大丈夫だと思いながらも、探りを入れてみることにした。確認は大事である。
「あの、ここにいらっしゃるということは、ステットソン伯爵か、フォークナー辺境伯のご関係で……?」
「いや。儂たちはウォリス侯爵家の者だ」
(よかった、違ったー!)
ステットソン伯爵本人でも関係者でもなかった。
もっと縁遠い貴族の名が出たことには気が回らず、リリーは盛大に胸をなで下ろす。
ほっとして余裕ができたリリーが馬車をしげしげと眺めたところ、車輪が轍に嵌まっており、豪華で華奢な車体は不自然に傾いで停まっていた。
車軸が折れたのなら、修理にも時間が掛かるだろう。
「しかし参ったな。王都から来たんだが、ここから町まではまだ遠いのかい?」
「町? ええと、馬車がこっち向きっていうことは、このまま山を登られるんですよね。この先には聖ギルベリア修道院しかありませんよ。山を越えれば、ステットソン伯爵領に着きますが……」
修道院に用事がなければ、山越えなどせず麓を回って行くのが普通だ。首を傾げるリリーに、馭者は驚いた顔をする。
そこに突然、若い令嬢の声が響いた。
「修道院ですって?」
はっとして目を向けると、開いた馬車の窓から優雅な扇と美しい金の髪が見えた。ご令嬢が乗っていたらしい。
「わたくしの目的地は、フォークナー辺境領よ」
「えっ、それでしたら反対方向です。私は山頂の修道院から来て、その辺境領に向かっているところですから」
「なんですって」
指を差しながらあっちとこっちの道を示すと、令嬢の声が怒気を帯び、馭者からはヒッと声のない悲鳴が上がった。
と、パタンと馬車の扉が開いて、艶やかな真白いファーコートを纏った令嬢が姿を現した。
さっと視線で命ぜられた馭者が駆け寄り、令嬢に手を差し出す。
馬車から麗々しく降りてこちらに来る令嬢を、リリーは目を丸くして見つめた。
(わあ、綺麗なひと……!)
華やかなブロンドに、整って気品のある顔。着ている服のせいもあって、雪の女王を思わせる雰囲気だ。
おとぎ話に夢中な小さなマギーがここにいたら、顔を赤くして喜ぶだろう。
人形のような令嬢は宝石のような薄紫の瞳でリリーをチラリと見ると、形のよい顎を上げる。
「シスター、あなたはフォークナー辺境領に行くところだと言ったわね」
「ええ。今日は市の日なので、修道院で作った品を売りに」
「わたくしを乗せなさい」
「えっ?」
「聞こえなかったの? その貧相な荷車で我慢してあげると言ったのよ」