塔の厨房 3
あの市の日、「リリー」を送り返してすぐ山道は雪に閉ざされてしまい、ディランたちのほうでも修道院と連絡は取れていないと聞いている。
そうなることを予想して、同行を命じられたロイは春までの遠隔地勤務という扱いになっているそうだ。
久し振りに古巣で冬を越すことになった幼なじみはきっと、懐かしさ半分、相変わらずのボロさに呆れ半分でいるだろう。
いつものように反論もせず、軽口も返してこないリリーに、デリックが訝しげな視線を向ける。
「おい?」
「……なんでもないわ」
ずっと使っていなかった厨房は芯まで冷えている。気が弱くなったのはきっと、寒さと空腹のせいだ。
(しっかりしなさい、リリー。落ち込んだってなにも変わらないでしょ)
しょんぼりしたところで雪が溶けるわけでも、入れ替わりが戻るわけでもない。目の前のことに向き合うほうが建設的だ。
握っていた瓶を調理台に置き、卵とハムを手に取ると、リリーは腕まくりをする。
「あまり時間はないのよね。早速作るから、かまどに火をいれてほしいの」
「……分かった」
包丁は、裁縫道具と同じように魔術を刻まれて渡されたが、火を使うときはいちいちデリックに頼まないといけない。これも約束事のひとつだ。
(……うん。お料理するの、久し振り!)
手や野菜を洗って包丁を握る頃には、ちょっとしんみりした気分も軽くなっていた。
厨房を使える時間は限られている。ぼんやりしている暇はない。
早速、バターを鍋に溶かし、小麦粉を加えて牛乳で溶きのばしてソースを作り始めると同時に。隣のコンロでは卵を茹でる。
「なにを作るんだ?」
「そうね。今日はここ使うの初めてだし、簡単にグラタンにしようと思って」
「簡単に?」
「ええ、時間もないし」
手間もそう掛からず、あり合わせのもので作れるグラタンは簡単の部類に入るだろう。おかしいことではないはずなのに驚かれてしまった。
(もしかして、コーネリア様は料理できないと思われてるのかなあ。まあ、ブリジット様は厨房に近寄ることすらしないもんね。でも保存食作りは領主夫人の仕事だっていうし、それならほかの料理だって少しはできると思うけど)
シスター・マライアからそう聞いたことがある。
リリーの親ほどの年齢で、夫に先立たれたか離婚したかして修道院に来たシスター・マライアは、裕福な家の出身らしく、孤児院の子に読み書きや簡単な礼儀作法も教えてくれる。
そのおかげで、孤児院の子たちの中にはティナのように領主館などでも勤められる者も出てきたのだ。
(……シスター・マライアのギックリ腰は治ったかな)
リリーが一人で出かける原因になった彼女は、修道院の中ではリリーの次に若手である。必然的にほかのシスターより体力仕事を多く受け持っているが、それを代われるのは自分だけだし、コーネリアに任せていいものか分からない。
考え始めると心配になるが、料理を始めると、あっという間にそちらに没頭した。
ゆで卵から外した黄身を荒く潰して刻んだハムを加え、修道院特製のトマトソースと混ぜ合わせたものを、白身に詰める。
何度か器具の使い方を尋ねただけでテキパキ立ち働くリリーに、デリックは驚いたようだ。ティナもぽかんとして手元を眺めている。
「料理ができると言ったのは、嘘じゃなかったんだな」
「こんなことで嘘を吐く必要はないでしょ。あ、そこの梨を取ってもらえる?」
「人使いが荒い」
「ふふ、ちょうどいいところにいるんだもの」
(いつもと作る量が違うから、ちょっとやりにくいなあ。おいしくできるといいけど)
普段は修道院の全員分を作るが、ここではそんなに必要ない。作り置きもできなそうだから、今食べる分だけ作ることにしたものの、少なく作るというのは案外難しい。
使い慣れたものよりずっと小さい鍋に違和感を持ちながら、それでも、久し振りにできる「いつものこと」が嬉しい。
(さあ、どんどん作っちゃおう)
並べた卵にベシャメルソースを掛けてオーブンに入れたら、空いたコンロに別の小鍋をかける。中身は梨のデザート――ひたひたの水に黒胡椒を数粒落とし、蜂蜜を加えて、梨をコンポートにするのだ。
冷え切った厨房は今やすっかり暖まり、あちこちからおいしそうな匂いが漂っている。
「デリックとティナも一緒に食べてね」
「……いや」
「あ、あたしはっ」
拒否の言葉を発する前に、ティナのお腹がぐぅと鳴る。髪と同じくらい真っ赤になったティナに、リリーはにこりと微笑んだ。
「出来上がりも確かめて、『なにも問題なかった』って、ちゃんとご領主様に伝えないと。これもお仕事でしょう?」
朗らかに言うと、二人はうっと言葉を呑み込んだ。
「ティナ、そこのテーブルを拭いてくれるかしら。デリックはお皿を並べて」
「まさか、このままここで食べるんですか?」
「あら。せっかくできたてなのに、お部屋に運んで冷めたのを食べて、またここにお皿を持ってきて後片付けをするの?」
「そ、それは……でも、王都のお嬢様が厨房で食べるなんて……」
ティナが呆れたように言っているが、聞こえないふりだ。
それに、リリーの体力にはまだまだ不安がある。部屋に運んだとたんに倒れて食べられなかったら、それこそ本末転倒ではないか。
「そろそろグラタンも焼き上がるわ。さ、動いて」
「わ、分かりましたっ」
少し斜めに傾いだ古テーブルに、茹で卵のトマトグラタンと、梨のコンポートが三人分並ぶ。
背もたれのない椅子に掛けて、困惑顔の二人を前にリリーは食前の祈りを捧げる。約半月ぶりに誰かと囲んだ食卓は、たとえいわく付きの塔の中であろうと楽しく、おいしかった。
調理の間も食事の間も、リリーはずっとご機嫌だった。
だから、気づかなかった。
一口食べるごとにティナの表情がなんとも言えないものになっていくことにも、真実を確かめるようなデリックの視線にも。




