ギルベリア修道院の見習い修道女 2
ひゅう、と吹いた風の冷たさにリリーは思わず首を竦める。この北風は、ガタがきた建物内にも入り込んでくる。
明け方の冷え込みは厳しく、暖を取るために幼い子供たちはひとつのベッドに複数人で抱き合って眠っている。
壁の穴や水漏れがする桶の修繕に、まっすぐな板や釘だって手に入れたい。
院長だって、そんな現状はよく分かっている。それでも表情が冴えないのは理由がある。
それは――。
「ですが、リリー。あなたが一人で町に下りたことを、もしステットソン伯爵に知られたら」
「今日行くのはステットソン伯爵領じゃなくて、フォークナー辺境領ですよ。それに伯爵は、もうずっと王都に行きっぱなしで、ちっとも領地に戻っていないっていうじゃないですか」
「それはそうですけれど、万が一ということもあります」
「大丈夫ですって! その万が一があって、伯爵が何かの用で辺境領を訪れていたとしても、庶民の市に来るはずないですもん」
リリーは、ステットソン伯爵の口ききで、生まれて間もない十九年前にこの修道院に預けられた。
伯爵との関係は一切不明だが、リリーを預ける際に伯爵は、修道院への継続的な援助を約束したという。
しかしこれには「伯爵家の許可なく、リリーが一人で修道院から出ないこと」などといった条件が付いていた。
約束を破ったことが知られたら、援助を打ち切られてしまう。
院長が言っているのは、そのことである。
(でも、伯爵との約束なんて今さらでしょ)
援助金の額は年々一方的に減らされて、今では雀の涙ほど。今年分に至っては、期限を半年過ぎた今もまだ支払われていない。
リリーには、秋の収穫祭の縁起物である御守り刺繍を大量に刺させたのにもかかわらず、である。
(しっかり品物だけ受け取って知らんぷりだなんて。市で売ったほうがよかった!)
伯爵は滅多に領地にいないため、実際にやり取りをするのは伯爵家の使用人か、娘のブリジットだ。伯爵本人と最後に会ったのは、もう何年も前である。
リリーや修道院に義務ばかりを押しつけるここ数年の伯爵側の不誠実な対応に、一応感じていた義理もすっかり薄れた。
自分にとって、守り愛すべき家族は、援助を口実に搾取する相手ではなく、苦楽をともに過ごすシスターや子供たち。
どちらを優先するかなんて、考えるまでもない。
「そもそも伯爵に顔を見られたとしても、絶対に私だって気づきっこないです。こんなに平凡な顔ですし。髪は、まあちょっとだけ珍しい色かもですが頭巾で隠れますし」
「平凡だなんて。リリー、あなたは可愛らしい娘ですよ」
頭巾からはみ出たローズベージュの髪を指に巻き付けるリリーに、院長が愛おしげな眼差しを向ける。
「えへへ、ありがとうございます、院長先生。身びいきでも嬉しいです」
照れ隠しをして笑うリリーの容姿はたしかに平凡だ。
だが、新緑の葉のような瞳は生き生きと明るく、おおらかで他人に警戒を抱かせない人好きのする性格をしている。
月に一度、市のために山から下りてくる見習い修道女は町でも人気で、リリーがいるといないとでは売上に大きく差が出るほどである。
「約束を違えることになりますけれど、先に反故にしているのはステットソン伯爵です。きっと神様もお目こぼしくださいます」
「……そうね。そう願いましょう」
さすがにそこまで言えば、院長も引き下がった。
眉を下げて手元のロザリオを見つめた院長が、ハッとして顔を上げる。
「だとしても、あなた一人で山道を行くのは心細いでしょう。市でも、なにかトラブルがあるかもしれません。ですから、これを貸しましょう」
「えっ」
そう言って、ロザリオをリリーの首に掛ける。
これは請願を果たした修道女に与えられる聖品であり、本来なら見習い修道女のリリーはまだ持てないものだ。
「お守りですよ。主と精霊の護りがありますように」
「院長先生の大事なものなのに……あ、ありがとうございます!」
十字架の少し上、ビーズを繋いだ鈍色のチェーンの途中には、楕円のメダイがついている。透明な石が嵌まっているそこには、聖ギルベリアの名が彫ってある。
「そう、私の大事なロザリオです。だから、必ず首から下げておきなさい。あなたは案外そそっかしいですからね、手に持つと落とすかもしれません」
「ううっ、はい。失くさないでちゃんと返します」
「ええ。約束ですよ」
おっちょこちょいな自覚はある。たしかに落としたら大変だ。
憧れの正式な修道女の証に満面の笑みで礼を言うが、付け加えられた注意点には大人しく頭を垂れた。
首に掛けたロザリオを握りながら、重々気をつけて山を下りること、市での用事がすんだらまっすぐ戻ってくることを、もう一度約束させられる。
その後、子供たちとも手を振り合って、リリーは初めて一人で修道院を後にした。
――このときは、約束を守れなくなるなんて少しも疑わずに。