第二話 三兄弟現る
義志が別の大部屋に入ると、既にそこには三人の青年が座していた。
一人は耳たぶがやたら大きい上に腕が長く、一人は長く見事な髭を持ち、一人はハリセンボンのような虎髭を持つ男である。
「正しくこれは」と思い、名前を見ようとした途端、耳たぶがやたら大きい男が名乗った。
「劉備前守玄徳でござる! いやぁ! 若へのお目通り。いや、お館様にお目通り誠に有難い!」
「劉備前守だと?」と義志は思ったが、勝手に官位を名乗るのはこの頃では当たり前のことだ。
それと同時に「自分の正式名称は何だろう」とふと思ったのだが・・・。
「同じく関出羽守雲長にござる」
「張飛騨守益徳だ!」
関羽だけ何故か姓が関である。
まぁ、この方が日本人っぽいのかもしれない。
「うむ。瓚太夫から聞いておる。三人とも剛の者のようだな」
「へへへ! 俺様の槍捌きを見たら百や二百ぐらい屁でもねぇぜ!」
「こら! 益徳! 口を慎め!」
「雲長の兄ぃ! こういうのは最初が肝心だぜ!」
「だからだ! この粗忽者め!」
その様子を満足そうに義志は眺めたが、同時にどこまで所謂三国志系の武将がいるのか想像した。
となると、魏の系統もそうだが、呉の系統の武将が喉から手が出るほど欲しい。
何故、義志は呉の系統武将が欲しいのか。
答えは簡単で水軍が得意な武将が欲しいのである。
この頃、利根川は銚子方面でなく、墨田川、太日川(現在の江戸川)が下流域である。
利根川東遷は江戸時代以降なので、当然といえば当然だ。
また、現在とは大きく異なり、川ではなく内海といった方が正しい。
これは憶測ではあるが地図を見てもらうと解るだろう。
http://stat.ameba.jp/user_images/20140815/05/edo-sanpo/71/03/j/o0750043113035007388.jpg
この地図は平安時代のもので、 室町に差し掛かる頃には水位が下がり、陸が姿を現している。
ただ、その陸地も湿地帯や沼地が多く、歩くのには相当不自由な場所が多い。
その為、道はかなり限られ、舟が交通手段に欠かせないのが現状である。
義志は当然ながら三人を歓待し、酒を振る舞った。
そして同時に他に仕官先を探している者がいるかを訊ねた。
「あ~それなら諸葛の小倅とか・・・」
「何っ!? 諸葛!? 玄徳よ何処におるのだ!」
「お、お館様。落ち着いて下さいよ。何処にも属してはいねぇけど、まだ小倅ですよ?」
「良い! 小倅で良い! で、何処にいるんだ!」
「それなら城下町に出た所に・・・あっ!? 何処へ!?」
「決まっておる! 案内せえ!」
義志は三人を伴い、守谷の城下町へと繰り出した。
爺の嵩兵衛には城下の様子を視察すると言伝をした上である。
そして、すぐに見つけたその諸葛某とやらは鍋などの修理をしている所であった。
「もし、そこの。君が諸葛か?」
「はい? 貴方様は?」
「私はその・・・なんだ」
義志は焦るあまり自分の名前を知らぬまま出てきてしまった。
さて、どうやって誤魔化そう。
そう思っていた刹那、玄徳が助け船を出してきた。
「おう。諸葛の。この御方を何方と心得る! 守谷の若様・・・違ったお館様にあらせられるぞ!」
「へ? へぇ」
流石にここで「頭が高い! 控えおろう!」にまではならない。
確かに場所は茨城ではあるが・・・。
「で、この私にどのような鍋の修理を?」
「鍋の修理ではない。私に仕えぬか?」
「はい? 守谷のお館様に・・・ですか?」
「そうだ。今は父上も亡くなり家臣も乏しい。才覚ある君に来て貰えると有難い」
「ええ!? それでしたら喜んでお仕え致します!」
「そうか! それは良かった! ハハハ・・・ハッ!?」
義志は三顧の礼を覚悟してきたのと同時に嫌な予感がした。
名前を見る前に「諸葛」というだけで判断してしまったのだ。
「この諸葛瑾太郎。お館のために尽くす所存でございます」
「・・・・・・はっ!? では、弟御もいるのだな!?」
「は? 確かにおりますが・・・」
「名前は!? そう名前は何だ!?」
「・・・亮次郎にございます」
「おお! そうか! では、弟御も一緒に参られよ!」
「いや、亮次郎はまだ今年で六歳にございます・・・」
「・・・そ、そうか。なら、成人したら迷わず余の下へ参らせよ!」
「・・・は、はい」
こうしてまずは諸葛瑾太郎が新たに召し抱えられた。
因みに字である子瑜は当然ながら名となり、読みは「ただよ」である。
ただ呉の者には違いないが、完全に文官の筈だ。
使える文官は皆無であったので、それはそれで有難い限りではあるのだが・・・。
「まずは重畳。ただ、他にもおらぬか? 玄徳?」
「ほ、他にですかぁ? それなら以前、山賊を一緒に退治した若い武芸者とか・・・」
「何? 名前は何と申す」
「確か太史・・・」
「よし! 行くぞ! 案内せぇ!」
こうして次々と更に集まった人物は総勢五名。
太史慈兵衛子義
夏侯惇一郎元譲
夏侯淵次郎妙才
張遼太郎文遠
満寵太郎伯寧
何れも逸材と言える者達だ。
不満があるとすれば、周瑜や陸遜などの水軍指揮官や、文官系が少ないところか。
ただ、夏侯惇一郎などは正史準拠ならば政治に明るい人物である。
また、満寵太郎に至っては政治、軍事ともに一流の人物の筈だ。
「趙雲や徐晃も欲しい所だが、流石に贅沢過ぎるかな・・・」
そんな独り言を義志は呟いたが、確かに贅沢極まりないことだ。
大体、領内をかき集めた所で兵の人数はせいぜい千人前後であろう。
さて、その領内であるが、細長い形となっている。
簡単に言えば「守谷から取手までの関東鉄道常総線沿い」といったところか。
最後に三国義志のこの世界での名前だが、正式名称は平相馬三国大膳大夫義志。
つまり「たいらのそうまのみくにだいぜんたいふよしゆき」となる。
義志はこの名前を知った時、思わずこう言ってしまった。
「三国志大戦とかけているのか・・・?」と。