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電光石火。
犬走の走りがグラウンドに風を巻き起こした。そして、甲賀ベンチにも。
「いけるぞ」
小さく、桐葉がそう言った。風は我らにあり。
打席に入った小さな男は、この勢いに乗らない男ではない。
石田ー森本のバッテリーに苦悶の表情が浮かんでいた。勢いに飲まれるのを必死で耐えている。必死で耐えられるその要因はプライドだ。理弁で野球をやるために血と汗を流してきた。全てを投げうって野球に賭けてきた。だが、そのプライドが見たこともない素人たちに崩されそうになる。苦悶が浮かんでしまうのも無理はなかった。
この時点で無情にも決着はついていた。
初球、精神が伴わないボールがストライクゾーンに向かう。
「余裕だぜ!」
月掛は踊るようにバットを振った。打球がショートを襲う。伊賀崎の身体が反応する。伊賀崎は垂直に舞った。高い。
「無駄だ」
走りながら月掛が舌をペロリと出し、笑った。伊賀崎は遥か高い打球に届くと確信してグローブを広げようとする。が、その白球が突然、銀色に輝く。スピードが上がる。伊賀崎の目が光に眩む頃には、打球はレフト前に強烈なドライブ回転とともに落ちていた。
「月掛流、月光。甘い球なんか通用しねえ。チビと思って油断したら、上から月が落ちてくるぜ」
月掛が派手にベンチを指差す。藤田が疲れきった両腕を上げ、大きな拍手を送った。
13-4。
9点差。
ワンアウト1、3塁。
三塁走者の犬走は悔しそうな表情でベースの上に立っていた。本来なら本塁に返れそうだったが、伊賀崎にしてやられた。
月掛がショート頭上に放った打球、僅かに伊賀崎が取れないのを確認した瞬間、犬走はスタートを切った。本塁まで行ける。そう確信して加速した瞬間、伊賀崎が叫んだ。
「ナイス、レフト!」
えっ? そこで犬走は急停止して戻りかけたのだ。ただでは終わらない伊賀崎の巧妙な罠だった。結果、犬走は三塁に留まり、落ち込んでいた。
静かに左打席に入った桐葉が犬走を見ていた。犬走が顔を上げると、桐葉はそっと手を上げた。落ち込む必要はない。俺が本塁に返してやる。そんな合図に見えた。
森本がタイムを取り、内野陣がマウンドに集まった。落ち込んでいる石田を森本が励ます。
「球は走ってる。石田のいつもの制球力も問題ない。自信持って投げ込んでこい」
だが、石田の表情は晴れない。それもそのはずだ。理弁和歌山には100人を越える部員がいるのだ。打の理弁和歌山という伝統は健在だが、投手陣の競争も激しい。せっかくの登板チャンスを、こんな素人野球に4点も奪われるなんて……。その失望が石田を包んでいた。
「石田、前を見ろ。何があるか分からないのが高校野球だ。あんな素人どもが工夫すれば点を取れる。それを今知ったことがお前の財産になるはずや」
伊賀崎はそう言って、ぽんと石田の背中を叩いた。
「あの3番、リベンジせえや」
「ああ」
石田の目が生気を取り戻した。桐葉はその目を自分の目と合わせる。相手にとって不足なし。力を測るに、申し分ない。
居合いの構えに入る。




