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ベンチの奥、一番涼しい場所に老人が独り、ぽつんと座っている。ちびちびと麦茶を飲み、グラウンドを見つめていた。
名は橋爪茂平。甲賀高校へは週に二回、臨時講師として古典を教えに来ている。紀貫之や鴨長明をまるで友達のように語ることから、年齢は800歳との噂も出ている甲賀高校の生き字引だ。生徒からは橋じいと呼ばれている。授業中の生徒居眠り率は驚異の75%を誇る。
誰も受け手のいなかった野球部監督をこの橋じいが受けてくれることになったのだ。
「ほほっ、わしはベエイスボオウルは昔から好きじゃよ。昔は着古した服を藁紐でくるんでボオルにしてじゃな、ベエイスボオウルを楽しんだものじゃ」
橋じいが副島と藤田を前にして、そう就任挨拶を行った時、副島は一層自分が頑張らねばと決意を固めたものだ。
橋じいはいつも杖をついてニコニコと微笑むだけで、当然指導は行わない。この合宿は引率が必須とのことで来てもらったが、このところの暑さで、この通りベンチの奥に陣取って、ただニコニコと練習を見つめているだけだ。
タオルで汗を拭いながら副島がベンチに戻る。奥から、「ふぉふぉふぉ」と、笑い声がした。
「副島くんよ。よう頑張っとるのう」
「ああ、橋じ……先生。ありがとうございます」
橋じいが震える手で紙コップを手渡した。
「茶でも飲みなされ」
「ああ、ありがとうございます」
橋じいは嬉しそうに副島が麦茶を飲み干すのを見つめている。副島が一気に飲み干し紙コップを置く。
「素振りしてきます」
「……あいや、待たれい」
橋じいはバットを持ってベンチを出ようとした副島を呼び止めた。
「橋じ……先生、何ですか?」
バットを持ったまま副島が橋じいを向くと、橋じいは手をこまねいて副島を呼び寄せた。
「まあまあ、こちらに掛けなさい」
俺は自分の練習できてないから一刻すら惜しいのに……。副島はぐっとそんな想いを抑えて、仕方なく橋じいの隣に座る。
「ほほっ、茶を飲みなされ、副島くん」
よぼよぼと紙コップを取り出し、麦茶を注いでいる。
「あっ、いえ。先ほどいただきましたので」
「一杯では足りんでしょうな、副島くん。とにかく副島くんは休みなされ」
そう言って橋じいはゆっくりと麦茶を注ぐ。副島にとってはその数秒の時間が惜しい。八分ほど注がれた麦茶が、橋じいの震えでちゃぷちゃぷと揺れる。
「今度はゆっくり飲みなされ」
一気に飲もうとした副島を橋じいが柔らかに制した。
「ゆっくりでええ。ゆっくり、まずは座ってじっくり煎れた茶を啜るのも一興ですよ、副島くん。ふぉほほっ」
麦茶だけどな……。仕方なくゆっくり飲むと、ふっと視界が開けた気がした。
グラウンド全体が見渡せる。土のグラウンドで残念ながら爽快な芝の緑はないが、それでも両翼90mまで続く圧倒的な存在感は、野球場の醍醐味である。橋じいはこりゃ特等席だろうな。副島はちびりと麦茶を啜った。
「落ち着かれたの、副島くん」
橋じいの麦茶は魔法の飲み物だろうか。肩の力が抜け、今まで見えていなかった景色が広がってくる。
休憩だと言っているのに、ブルペンではまだ白烏が滝音の構えるミットへ必死に投げ込んでいる。その後ろで汗を拭いながら藤田がタオルでシャドーピッチングをしている。
目を移すと、蛇沼が桔梗に高いフライを何度も上げて、桔梗が必死にボールを追っている。その間で素振りをしながら、道河原と桐葉がフォームを確認し合っていた。三塁側では月掛が壁あてをして、ゴロの捌きを何度も反復練習している。
あいつら……全然休憩してへんやん。副島は嬉しそうに苦笑いした。
「副島くん、見えるかね。わしは君と藤田くんだけの時から顧問をさせてもらっとるが、この光景はなんとも嬉しいもんじゃ。して、安心しなされ。君は己の練習せずとも、二人きりの時よりずっと上手くなっとるよ」
「え? 俺がですか? 俺は全く自分の練習できてないです」
「ほっほっほ、人の背中を見て人は学ぶもんじゃよ。赤子は親を見て学ぶのじゃ。ベエイスボオウルも同じじゃよ。君が皆に教えながら、君はその分多くを学んでおる。今の君は9人分のベエイスボオウルをいっぺんに学んでおるぞ。ふぉほっ。焦らずともよし」
聞いていると不思議と眠くなるが、橋じいの言うことは一理ある。人に教えることで気付かされることもある。
さあ、それならば一体どれほど成長しているのか……。明日の腕試しが楽しみだ。
まだ誰にも話していないが、明日、この辺鄙な合宿施設に練習試合の相手が来てくれることになっている。おそらく相手を教えると、皆は色めき立ち、ちゃんとした練習ができなくなると思い、言わずにいた。
「先生、明日の試合でだいたいこのチームの現在地が分かると思います。もちろん、俺のレベルも」
「ほほっ、そうじゃの。相手に不足なし、じゃの。ほほほっ」
そう、なんだかんだで教師歴約50年の橋じいのつてと、副島の亡くなったお兄さんのよしみで明日の練習試合相手は来てくれるのだ。
信じられないチームが。




