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「審判どの。選手の交代を言いますぞ」
ゆっくりと白烏がファウルゾーンからフェアゾーンへ線を跨ごうとした時、その声は聞こえてきた。
「三塁手の蛇沼くんを投手にしますぞ」
「……………………へ?」
「……………………へ?」
白烏と蛇沼が同時に声を出した。
「面倒じゃろうし、滝音くんはそのまま三塁手で結構」
「……………………へ?」
滝音も声を出す。副島はレフトから声も出せない。
橋じい劇場は味方すら混乱の渦中に誘う。敵の遠江姉妹社はそれどころではない。
「おいっ、あのサードの投手データはあるのか?」
「いえ、無いです。ていうか、そもそも甲賀のデータはほとんどないです」
「そうか、そうやわな」
遠江姉妹社は怖がっていた。不安いっぱいでマウンドに登る蛇沼を見て。
「滝音くん、僕、どうすればいいの?」
蛇沼が目に涙を溜めて滝音に訊ねた。
「俺も分かんない。でも、たぶんだけど、蛇沼の別の顔をしたとき。あれなんだと思う」
「……分かった。やってみるよ」
ファウルゾーンの片隅で白烏が小さな泡を吹いて直立不動でいる。背番号1は蛇沼よりも信頼がない。それは白烏の心を完全に砕いた。
「白烏くーん、そこじゃまー」
虚しく桔梗の声が白烏の鼓膜に響いていた。
蛇沼は手で顔を覆った。
あの憎らしき日々を思い浮かべる。ひねくれざるを得ず、誰も友達がいなかった時を。手を顔から離すと、蛇沼の愛らしい顔はすっかり変わっていた。口角が鋭く上がり、目も吊り上がっている。
な、なんだ? 打者はその変わりように怯えた。
蛇剣を持つ要領だ。蛇沼は握ったボールを見て、思った。こんなに綺麗に握っちゃダメだ。そう感じて、適当に握り直す。全部の指でボールを握り、爪を立てる。初めてボールに触れた赤ちゃんが握るように、めちゃくちゃな握りかたをした。
蛇沼が道河原に向かうが、道河原は敢えて首を振った。サインは出さない。そんな合図だ。それを見て、蛇沼は細い舌でペロリと唇を舐めた。屈強な道河原でさえ、その姿を見て身震いする。人とはここまで変われるものなのか。
蛇沼がとても投手には思えない投げ方で初球を投げる。ボールは打者に向かっていく。球速は遅いが、慌てて打者はボールを避けた。
だが、そのボールは途中でゆらりゆらりと揺れ始めた。ボールは信じられない軌道で大きく揺れながら曲がり、すぽりと道河原のミットに収まったのだ。蛇沼は何も意識していないが、いわゆるナックルという球種だ。
ス、ストライッ!
それが、本当にたまたまストライクゾーンへ入っていった。これはただのラッキーだが、初球でこの球を見せたことが大きかった。