私的宗教論 ひとはどうやって神を表現するのか
私的宗教論です。自らの認識を超えたものを、ひとはどうやって表現するのか。
多分、2003年の記
先の拙稿「カント哲学の私的解釈」により、人間にとって神は不可知であるとした。
この考えを敷衍すれば、神は人間のことばによって、表現することはできない存在、ということになり、世界中のあらゆる宗教は意味がない、ということになってしまう。
論理的にはそうなる。
しかし、感情的に私はその論理には与しない。
人間が認識することのできるこの世界と、人間には認識することのできない世界。
それをつなぐものが宗教であり、人間の思考能力を限界いっぱいまで使って、本来、表現することのできないものを何とか表現しようとするものが宗教である、と考えるからである。
少しでも本来の姿に近づけようとするなら神は超常的な存在でなければならない。
偶像崇拝禁止ということが最もあるべき姿であろう。
キリスト教も、 仏教でさえも初期はそのとおりであった。
しかし、普通の人間が信仰の対象とする には、結局のところ、偶像は必要であった。
本来はるか高みにあるべき存在は どんどん人間の世界に下降してきた。
例えば、ヒンズー教。
ブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌの3神の中で、元々は 最も高みにいたブラフマーは徐々に信仰の対象からはずれていき、より人間的でドラマ性に富むエピソードを豊富にもつ、シヴァ、ヴィシュヌが信仰の対象となっていった。
キリスト教しかり、仏教しかり。
神は、仏陀は、人間によって、その姿を顕現させられた。
三大宗教の中でイスラム教のみは今にいたるも偶像崇拝は許されない。
コーランについても、かつて
「神のことばが、コーランという限定されたことばというものによってあらわすことが許されるのか」
ということが大きな問題になった。
これは結局
「ことばによる限定はあるが、その意味において永遠である」
という考え方が正当となった。
かくのごとき議論は、宗教を最もあるべき姿としてとらえようとすれば当然、問題となることがらであろう。
これまでの論理であれば、偶像崇拝の許されないイスラム教は、その信仰が衰えていくべきもののはず、ということになるが、隆盛である。
これについては、私は、イスラム教が信者の日常規範をこと細かく定めているからである、と推定する。
こまめに信者の面倒をみる。
そして日々濃厚に密着する。
ある宗教が栄えるには それは欠かすことのできない要件なのであろう。