縛鎖からは逃げられない!
視界の先には砂嵐が巻き起こっている。
耳障りな音とともに。
特段、見たい番組をつけていたわけでもなく、青年――三沢幸一は、虚ろな眼差しで延々と蠢くテレビモニターの砂嵐をただただ見つめていた。
電気もつけず、モニターの明かりだけが唯一の光源となっている。
本来であれば白い壁紙が映える、フローリング作りの床の瀟洒な室内も、今やゴミが撒き散らされて酷い惨状を呈していた。
当人も無精髭がのび、着ている衣類も汗臭いTシャツとよれよれのジーンズという有様だった。
まだ20代の青年で、きちんとしていればそれなりに見られる容姿をしているのだが、今では見る影もない。
三沢はそんな室内の中央に座り込み、猫背をさらに曲げながら虚無の狭間を彷徨っていた。
と。
何の前触れもなく、何かが弾けるような乾いた音が砂嵐の雑音に負けずに室内に響き渡る。
「ひ、ひぃいい!」
情けない悲鳴を上げ、後ろ手に後退さろうとする。
が、身体が震えて言うことをきかない。
どうにもならないと悟ったのか、三沢は頭を抱え込んでその場に丸くなってただ震えるだけとなった。
恐怖におののく呟きを繰り返しながら。
「ゆ、許してくれ! ゆる、許してくれ!」
三沢は市内の公立中学校において、数学教員であるとともに2年生の担任を務めていた。
教員試験に合格し、大学を卒業してから運良く現中学校に在籍することになってまだ数年。
年若い教師として、世代的にそれほど生徒たちと離れていないために人気も有り、クラスも概ね問題なく運営されていた。
しかし。
実際は人間の負の部分が深く静かに潜行していたのである。
公になったのは2年の年度末、3月のことだった。
1人の女子生徒が自殺した。
自宅で首を吊ってのことだった。
遺書も残さずひっそりと死んでいったことや、学校でのいじめ等の痕跡が明確にならなかったことから、マスコミも騒がず結局地元新聞の社会面に小さく記事が載ったにすぎず、社会的には次第に記憶から忘れされていく。
この時代ならではの当たり前の、だからこそ多くの中の1つにしかすぎない事件として、このまま風化してしまう……はずであった。
なにより、彼女には両親がおらず、育ての親である祖父母の『かわいい孫娘をそっとしておいてやりたい』という想いであったことも、事件を霧散させるに足る十分な要因だったのだ。
……だが、事件は決して終わったわけではなかったのである。
年度が替わり、三沢も三沢のクラスもそのまま進級し、最高学年となってから1ヶ月強。
ゴールデンウィーク明けのイベント、修学旅行でそれは起こった。
例年通り、3年生は京都へと修学旅行に出かけ、毎年利用している旅館へと宿泊。
そして、その旅館が火災に見舞われたのである。
原因不明の火災だった。
鎮火後の現場検証で、警察も消防も火点を特定することができなかった。
あまりにも不自然な燃え方をしているのにもかかわらず、それが既存の概念では分析できなかったのだ。
なぜならば、燃えたのは三沢のクラスの生徒たちが宿泊している施設だけだったのだから。
全焼しており火災の凄まじさを物語る一方、それ以外の場所には多少のこげや煤という被害はあるものの、まったく延焼のない状態だった。
さらに。三沢のクラスの生徒全員が死傷したのだ。
結果的に死者6人、重軽傷者34人という大惨事となった。
当局の発表では放火による火災とも断定できず、結局原因不明の火災としてなお調査続行中と、それ以上のことは語られることはなかった。否、実際語ることが不可能な、不可解な火災だったのである。
だが、一部のマスコミは、2ヶ月前に起きた自殺した女子生徒が今回被害にあったクラスの生徒であったことに着目していた。
元々一般紙ではないため、彼らはタブロイド誌ならではの表現力と、蛇の道は蛇という情報網により、女子生徒との死と今回の火災を見事に線に結びつけたのである。
『自殺女生徒の怨念。いじめ学級に復讐か』。
高級紙ではおよそ無理であろう、下劣な内容ではあったが、大衆はこの手のゴシップに酷く興味を誘われる。
世間の注目は火災事件だけではなく、たちまち自殺女子生徒事件にまで再び向けられることとなった。
そして……自殺事件は決してタブロイド誌の記事にされるだけの存在ではなかったのだ。
そう、『いじめ』は存在していたのだから……。
火災事件後。
生き残った生徒のうち、重傷の生徒はもちろん、軽い火傷や擦り傷程度の生徒まで不登校になり、実際に登校してきた生徒はわずか5名にも満たなかった。
マスコミ報道と不可解な事件に生徒たちが恐れ慄いたためだ。
女子生徒の怨念―おどろおどろしいコピーのタブロイド誌の内容を真に受けるまでもない。生徒たちは女子生徒を実際にいじめていたため、加害者として誰よりも事の真相を知っていたのだから。
加えて、亡くなった6名こそがいじめの主だった実行犯であり、さらに重傷を負った生徒がまれにいじめに加わったり露骨にはやし立てたりする人員で、残りの軽症を負った者達は周りで傍観していた生徒たち、という事実があった。
これについても、一番わかっているのは生徒たちだった。
重傷の者たちは軽傷の者たちを『傍観し救いの手を差しのべない点で同罪』と揶揄し、軽傷の者たちは自分たちの『無垢さ』を主張し重傷者らを『いじめの実行犯』として軽蔑する。
いずれにせよ、全員がやましい心を持っているからこその責任の擦り付け合いであり、罪ということであれば全員が同罪ということを理解している証でもあった。
そしてなにより、罪を理解するということは、『女子生徒の怨念による復讐』という、常識でははかり知れない恐怖を感じることと同義だった。。
その恐怖に耐えられる生徒などいるはずもない。
自室に篭って布団を被り、誰とも接触しないで一日中震えている。
大半の生徒がそのような状態になってしまったのも無理もない。。
ただ。
それでも1人だけ、クラスのことに関わりつつも被害を受けていない人物がいた。
担任の三沢だ。
彼は、実際は自分のクラスにていじめがあることを認識していた。
だが、陰湿かつ計算高く行われているそれは、明確な証拠を表に出さなかった。
もっとも、三沢自身が特に熱を入れて真実を暴き、状況を是正しようとしなかったのだ。
彼自身、知っていて何もしなかったのである。
それは余計なことに首を突っ込みたくなかったことや、事が事だけに上に知られた時に自分の査定への影響が気になったことなど種々理由があったが、一番の要因は彼自身がいじめの実態を軽視していたことにあった。
それが致命的となった。
最悪の事態は起きてしまい、さらに事態は進行中。
加えて、彼の身にも不可解なできごとが数多く起きるようになっていたのだから。
夜な夜なやってくる金縛り、ラップ音。
街を歩いていても誰かに見られているような感覚。
時折感じる、背筋を凍らすような、冷たい気配……。
日々繰り返される異常事態に、女子生徒の自殺から少しずつ積もり積もったストレスが爆発するのも、そう時間がかかることではなかった。
学校が夏休みに入ったところで彼は退職願を提出した。
もはや三沢の精神状態はそこまで悪化していた。
学校側は退職願を受理せず、逆に休職扱いではどうかと提示した。
それは、今三沢が辞めてしまえば、事実関係が明らかにされる前にいじめの実態を世間に向けて暗に認めてしまうことにもなるから――そのような学校側の打算だった。
三沢はもはや難しいことを考える余裕もなく、ただその提案を黙って受け入れた。
今はとにかく、1人になって落ち着きたかったのだから。
8月に入ってからは自宅アパートに引きこもり、毎日酒で気を紛らわす生活をしていた。そうでもしなければ、相変わらず毎日身に降りかかる奇怪なできごとに耐えられることはできなかった。
お盆前のこの日も、三沢は床に座り込んで朝から一日中酒をあおり、虚ろな眼差しを相変わらず泳がせていた。
幸い、今日は妙な物音も怪しい気配もない。
三沢の心も幾分リラックスしている。
だからだろう。郵便受けにたまった郵便物を管理人から注意され、とりあえず持ってきたものの、まったく見ることもせずに床に打ち捨てられていたそれらに目が行ったのは。
何気なく手にダイレクトメールを取っては、斜め読みして再び放り捨てる。
何度か繰り返した後、一枚の絵葉書に目が留まった。
夏らしい風鈴のイラストがレイアウトされたそれ、残暑見舞のはがきを手に取る。
『残暑お見舞い申し上げます』という印刷された定型文がしたためられており、さらにその脇には、こちらは手書きの一文が。
三沢の目が見開かれた。
はがきを持つ手が、小刻みに震えだす。
その振幅は次第に大きいものとなっていった。
『もうすぐ楽にしてあげるからね、先生』
はがきを取り落としそうになった。
しかし、三沢は見ずにはいられなかった。
はがきの反対側を。手を震わしながら、ゆっくりと裏返していく。
差出人のところに書いてある名前。それは――
『石川早苗』。
住所も何もなく、ただそうしたためられてある。その名前は……。
三沢は悲鳴というより奇声を上げてはがきを放り投げた。
取り乱しながら立ち上がり、棚に飾られた品物や、テーブル上の食器をなぎ倒しながら玄関へとよたよた歩いていく。
靴も履かずに外に出た三沢はそのまま走り出した。
外は夏ならではの激しい雨が降りしきっていたが、そんなことなど今の彼には気にもならないことである。意味不明の奇声を上げながら、ただただ走る。
もはや彼の精神状態は崩壊寸前だった。
はがきの差出人は、今はこの世に存在しない自殺した女子生徒その人だったのだから。
錯乱した今の三沢にとって、ただひたすら走ること、何かから逃げるがごとく走ることが全てだった。
生命の危機からの回避、生物としての本能がそうさせていた。
街灯の照明だけが街路を照らす中、三沢がとある十字路へさしかかった時だ。
そのまま突っ切るつもりだった彼の足が、交差点の中央ではたと止まる。
見開かれた双眸の先に、土砂降りの雨に濡れつつ佇む、セーラー服姿の少女が1人……。
少女も、三沢のことをまっすぐ見据えていた。ゆるぎない、その視線で。
石川早苗。
彼女は笑っていた。心温まる微笑み、ではない。太陽のような輝く笑顔でもない。
それは薄笑いだった。あざ笑っているのに近い、尋常ではない笑み。
「し、し、死んだはずだ! おっ、お前は―!」
絶叫に近い叫びを上げる三沢。痙攣と言っていいぐらい震え、後退さろうとするが身体が竦みあがってしまい、動かない。と、三沢の耳に声が。
『先生。先生がいけないんだよ? みんなと同じ。何もしてくれなかったんだから』
石川の目が細められ、口元は再び歪んだ笑みに彩られる。
同時に、三沢の右手から雨音を縫って聞こえてくる車の音が。ライトの光が徐々に強くなってくる。
だが、三沢の身体は動かない。逃げたくても逃げられない。
「わ、わ、悪かった! 俺が、俺がわ、悪かったっ、だ、だから―」
『だぁめ。許してあげない』
嘲笑が辺りに高らかに響き、三沢の懇願の叫びを打ち消す。
そして、薄っすらとその姿を消していく石川の狂喜の笑みが、三沢の網膜に焼きつき、それが彼の最後の記憶となった。
8月7日。
石川早苗の『月命日』のできごとである。
了