第〇話 戻れるわけないじゃないか!
本編になります。主人公中心の話の場合は、一人称主人公視点での展開になります。
西側一帯で、仲間の、家臣の、領民の、逃げ惑う姿があちらこちらで見て取れた。それを救おうと、防衛隊の指揮官や冒険者のリーダーたちがかける声と、奔走する足音がここまで聞こえてくる。
もう駄目かもしれない。しょせん間に合うはずなかったんだ。どんなに明るい前途や希望を謳ったって、現実がこれじゃあもうどうしようもない。
戦いに勝ち負けはつきもので、負けたら立て直して挽回すれば良いじゃないか。昔からそうやって戦いは繰り返され、そのたびに流されるのは、無辜の民の血だ。今回に至っては、その、負けて立て直せる余地すらない。
「ヨンド様、もう持ち堪えられません! 前線は崩壊、敵が内門に迫ろうとしています。今ならまだお戻りになれます、どうかヨンド様だけでも落ち延びられて……」
近侍の言葉を遮り、俺は改めて周囲を見回した。
俺がいるのは西側の外郭門から続く市街地を抜けて、王城を囲む内郭に設置された、物見櫓の中の一つだ。現在展開されている籠城作戦の進捗状況を、一番把握しやすい場所だ。
既に西側の外郭門は波状槌によって破壊され、一番近い内郭門までの街道上はおろか、大店小店、民家に至るまで蹂躙され始めていた。
敵側に最も近い城内で、多めの手勢を配置して侵攻をなんとか食い止めている隙に、住民の避難をあらかた済ませた内郭の内側は、多くの人々で埋め尽くされていた。
その人々が逃げ込んだ最後の砦、この内郭の門が破壊されればもう後がない。攻め寄せる軍勢は今のところ一方向からたけだが、後続が現れれば他の門や内郭周囲をすべて固められ、絶体絶命に陥るのは目に見えていた。
今すぐ決断しないといけない。なにができるのか考えるんだ。
「城内の近衛師団を今すぐ避難民の誘導に当たらせろ! 東の外門から港へ行かせるのと、南のクラーベ砦に向かわせるのを指揮官に一任する。大至急だ!」
近くに控えていた伝令がかしこまった後、きびすを返した。
「ヨンド様! もうこれ以上は……どうか私と共にお下がりくださいませ!」
避難民の誘導を櫓の上から見守っていると、早くに避難させたはずの、俺にとってはかけがえのない人物が飛びついてきた。こんな時なのに、柔らかくて温かい抱きつく胸元と、俺が贈った香水の甘い香りにクラクラする。
「それが無理ならば、ヨンド様だけでもお戻りに……っ!」
なにやってんだ、どうしてここにいるんだ? もうとっくに避難してたんじゃないのか! ハッと気づいた俺は、周りの目も気にせずに相手の肩を掴んで揺さぶっていた。
「どうしてここにっ!? 今俺が、ここから下がれるわけないじゃないか! 向こうに戻ったらそれで終わるのか? また城まで攻め込まれて、もしあれがぶち壊されたらもう戻れないんだぞ、二度と来れなくなっちまうじゃないか!」
「そ、それでもヨンド様がご無事なら! 私にとって、私にとってヨンド様だけがすべ……」
「それじゃ駄目なんだ、それじゃあ! 今逃げ出したら俺は、以前のしょうもない男に戻っちまう。やっとなんだ、やっとお前が、お前らが大切だって分かって、俺は変われるんだと思ったんだ! だから戻らない。戻れるわけないじゃないか!」
そうなんだ。これまでの時間が、周りの連中の優しさが、この、今では愛しいって心から思えるこいつの強い気持ちが、これまでやってきたことが、俺を変えてくれたんだ。わがままで独りよがりで、人の優しさや温かさ、痛みを感じることができなかった自分から。
こうなったらやってやるよ、とことんまでな。俺が守り抜いてみせる。お前らが変えてくれた、この俺が!
「よしっ! これから俺と一緒に、一芝居打ってもらうが、覚悟はいいな?」
「は、はいっ! えっ?」
巻き込んじまうけど勘弁な、もう今から逃がしてる時間はない。なら俺に付き合ってもらう。やっと気づいた俺の本心が、一緒にいたいって言ってるしな。
近侍を呼び指示を与えて、急ぎ準備をさせる。もう敵はすぐそこまで迫っている。一刻を争う状況の中、俺が思いついた策はこれしかなかった。
何度となく読み返した愛読書に出てくる、どう考えてもあり得ないでたらめな、あの策だ。でも今なら、まだ時間を稼ぐことができるかもしれない。
「あ、あのう、ヨンド様? 私、芝居というものをした経験がございませんが、一体何をすればよろしいのでしょうか?」
「うん? ああそうだな、簡単な役回りさ。この櫓に用意した酒席で、俺と楽しく酒を飲んでくれれば良いだけだ」
「え? どういうことでございますか、その役周りとは? それにヨンド様、そもそも私、お酒を嗜んだことがございません⋯⋯」
おっと! そういえばそうだ、まだ成人前だった。すっかり忘れてたけど。
俺は片頬を上げながらニヤっと笑いかけ、右こぶしを握って親指を立てた。
「大丈夫だ。俺とのデートだと思えばいい。嬉しいだろ?」
「デートでございますか? デート⋯⋯っ! 逢引きのことでございましたね? こ、このような時節、場所柄で恐れ多いことです。で、でもヨンド様からのお誘いとあれば私、急ぎとびっきりのおめかしをして参ります!」
喜び勇んで着替えに行っちまった。そんなに嬉しいのか、こんな時なのに。でもああいうところも好……まあいい。
なんとか酒席の準備は整ったみたいだ。俺は席に着いて、内心冷や汗どころではないのをどうにか隠しながら、悠然とした態度を装って彼女が戻るのを待つ。
そして。あいつらが救援に駆け付けてくれるのを、今か今かと待ちわびていた。
こうしている間にも、全滅の危機は目の前まで迫っている。
俺は櫓の上で、北の山脈、東の港、南の丘並みをなるたけ意識しないように全神経を費やしていた。豪奢な王服の背中で、冷たい汗が止まらない。
今まで毛嫌いしてたがそんなことはもうどうでもいい。だから頼む、緑の神様!
頼むからどうか、救援を間に合わせてくれ! お願いだから……
この話は、プロローグ的な扱いのお話です。次回から、読人の話と異世界の話が別々に進んでいきます。召喚によって話がくっつくのはまだ先になります。