希望の光
Ⅰ
青年は家路を急いでいた。あたりはもう暗くなり、人通りもほぼなかった。
彼は親に怒られるから急いでいるわけではない。むしろこの場から逃げきれれば、あとはどうでもよかったのだ。彼は何者かに追われていたのである。
その何者かは青年の後方を同じ距離・ペースで先ほどからずっと歩いていた。人通りが少ない故に、標的が自分だということを彼はすぐに理解した。
青年は自分が尾行されていることに気が付かれないようにゆっくり歩いた。しかし、曲がり角のカーブミラーを不意に見た際に、不覚にも後方の不審者と目があってしまった。
暗く視界の悪さから、男か女かさえわからなかった。しかし、獲物を狩る前の獣のような飢えた目は容易に認識できた。
そして自分の存在が築かれたと悟るや否や、ケモノは青年を全速力で追いかけてきたのである。
青年は自宅まで精いっぱい走った。しかし、それが無駄なことだということはすぐに分かった。ケモノは瞬く間のうちに獲物に追いつき、腕をつかんだ。
「離せ! 誰か助けてくれ! 」
人通りの少ない夜道を青年の叫び声がこだました。
「ゴメンネ。アノ人ノタメノ。」
そうつぶやくケモノの手にキラキラと月光が反射していた。それがナイフだと気が付いたとき、刃先は彼の腹部という鞘にしまわれていた。
再び引き抜かれたナイフには、月光の輝きが血に反射し、その鮮やかさを際立たせていた。血まみれになった青年は倒れこむ。
狩りを終えたケモノは、その場を後にした。夜空の向こうのどことも言えない場所を見つめながらケモノはつぶやく。
「今日モ上手クイッタ。アノ人ハマタ褒メテクレルカナ? 」
夜空を照らす星の輝きはケモノに希望を与えた。
Ⅱ
電話が鳴った。
「先生、急患です。大至急病院まで来てください。」
男は眠たい目をこすり、顔を洗い大急ぎで支度をする。
彼は病院に勤務する外科医であり、名門国立大を卒業後、現在の病院に赴任して8年目になる。
肩書きだけを見れば誰もが羨む存在だが、現実はあまり良いものではない。
特に夜中の急患は否応無しに呼びだされるのだからたまったものではない。
男が病院に到着すると、すでにオペ室の準備は完了しており、全スタッフが男の到着を待っていた。
「先生、お待ちしていました。」
電話を入れてきたナースの女が駆け寄る。
「患者の容態は?」
「何者かに刺されたようで出血多量の危険な状態です。早急な処置が必要です。」
寝不足でふらつく頭をたたき起こして、その場の全員に指示を出す。
「わかった。すぐに取り掛かろう。」
手術はすぐ開始された。幸いにも患者の傷は急所を外れており、数時間の医師たちの健闘によって患者は一命をとりとめた。
オペ室を出る医師たちの中、男はひときわ疲労感を感じていた。何しろ深夜の就寝中に呼び出されたうえに、自分がメインとなってオペをしているのだから。近くにあった椅子に彼はどっかりと腰を下ろした。
「お疲れ様。また成功だったみたいだな。」
同僚の医師が話しかけてきた。
「あぁ。うまくいって一安心だ。しかし、こうも毎回深夜に呼び出されるのは正直しんどいよ。それに疲れのせいか目が覚めても全然寝た気がしないんだ。まるで寝ても覚めても仕事って感じかな。」
「大変だな。でも、この手術はお前が適任なんだから仕方ないよ。この一連の事件はさ。」
この地域では一年ほど前から連続傷害事件が起きている。深夜の人通りの少ない時間を狙って行われており、被害者は皆ナイフで腹部を刺されている。もっとも、病院の周辺の地域であるため迅速な処置が施されることで、「殺人事件」にならずにすんでいる。
「思えばあの日からずっとか……。」
男はどこともいえぬ方向を見て呟いた。
一年前のある夜、男は深夜にもかかわらず病院に呼び出された。話を聞けば、腹部を刺された急患が搬送されてきたので、オペの執刀をやってくれとのことだった。最初男はこれを断った。男は外科医としては、腕がそこまで良いわけではなかった。
しかし、その日は医師会の会合で腕のいい医師たちは皆外出していたのだ。止む無く男は執刀を試みた。
するとこの手術が大成功。以来一連の傷害事件は彼の専任となり、院内での彼の立場も飛躍的に上がったのだ。
「たいしたもんだよな。でもお前、あれ以来腕は上がったのか? 」
男は苦笑いを浮かべた。
「それが全然なんだよ。でもどういうわけか、一連の被害者のオペの時はいつも傷の処置法とか必要な輸血量、傷口の縫合まで全部手に取るようにわかるんだ。まるで誰かに事前に教えてもらってるみたいにさ。」
「よくわかんないけど、それでも出世出来てるんだから羨ましいよ。」
そういって同僚の男は去っていった。
残された男はひとり呟く。
「出世なんかどうだっていいよ。それよりも俺は……」
疲労感のためか、そこまでつぶやいて彼は眠ってしまった。
Ⅲ
「役立たず。」
「頭いいだけでホントなんも出来ねえな。」
「どうせみんなのこと見下してんでしょ。」
「医者になったからって偉そうだな。」
「腕の悪い医者なんて使えないゴミだよ。」
暗闇の世界で、かつての罵声が飛んでくる。それは矢となり男の心をえぐる。男の体からあふれた血は、彼をさらに深い闇へと誘う。
「やめろ。もうやめてくれ! 」
そう叫んだとき、男はようやく目を覚ました。
あたりを見回すと、そこは院内のオペ室前であった。疲労感から昨晩のオペ後にそのまま眠っていたようである。
寝起きのぼうっとする頭を起こして、どこへともなくふらふら歩いていると、後ろから声がした。
「先生!」
振り返って見ると、例の事件で先月搬送されてきた少女だった。
「やあ、元気そうだね。傷はもう大丈夫かい? 」
「はい。もうすっかり良くなりました。」
「そうか。それはよかった。わざわざ報告に来てくれてありがとうね。」
「いえ、助けていただいたんですから当然です。それに、なんだか先生は親しみがわくっていうか。」
「もしかしたら君の手術の前にどこかで会っているのかもね。」
「とにかく、ほんとにありがとうございました。それじゃあたしはこれで。」
少女はぺこりとお辞儀をして、走り去っていった。
「やっぱり、医者になってよかった。」
男にとって金や出世などどうでもよかった。
彼は自分の治療した患者が元気になってくれること、その患者がありがとうと言ってくれることが何よりも喜びだったのだ。
遠目に小さく見える少女の姿が、朝日に照らされ輝く。それはまさしく彼の希望だった。
Ⅳ
その日も男は病院にいた。といってもその日は彼の勤務日ではなかった。病院に併設されているカウンセリングルームを訪れていたのだ。
彼が休みを削ってまで、そこを訪れた理由は二つある。
一つは自分が担当した患者たちのその後の様子を見ることだ。彼の担当した患者は、ほぼ一連の事件の被害者である。すなわち、みな突然何者かに殺されかかったわけであり、手術後はリハビリとともに、精神的な治療を受けるものが少なくないのだ。
「いらっしゃい。また今日も来たのね。」
カウンセラーの女が出迎える。何度も訪れているうちに、彼はすっかりカウンセリングルームの常連となっていた。
「あぁ。自分が担当した患者だ。その後の体調を気にするのも医師の務めだよ。」
「ホント、あなたって責任感強いわね。」
女はそう言って手元のカルテに目を通した。
「殺されかけた恐怖がまだ残っている人もいるけど、実際ほとんどの人が事件後数か月で退院しているし、問題ないわ。」
「普段の生活の中で恐怖が蘇ったりはしないのか?」
男の問いかけに彼女は少し間をあけて答えた。
「その可能性はあるわ。それが起きないようにこっちも治療しているよ。幸い今のところそういった症状は出てないわね。」
そして彼女はつづけた。
「まあ、自分を襲った本人に会いでもすればありえなくはないわね。」
「それはないだろ。自分が殺しそこなった奴の前にのこのこ姿だけ出しに行くなんて。」
男の返した言葉に、それもそうねと女は笑った。
その時、ガチャと後ろで音がして、病室の扉が開いた。
「あれ? 先生、なんでここに? 」
振り返って見ると、それは以前自分が手術を担当した、あの少女だった。
聞けば少女も他の患者同様にカウンセリングを受けに来たのだった。もう少し他の患者のことを聞こうと思っていたところであったが、ここは少女に場を譲り、男はいったん病室の外に出た。
しばらくして少女はカウンセリングを終えて出てきた。
しかし、どういうわけか暗い表情をしていた。
「どうしたんだい? もしかして、事件のことがまた蘇ってきたのか? 」
「いえ、違います。 カウンセラーの方も丁寧な方でした。ただ……。」
「なんだか、妙にソワソワするというか。なんだか落ち着かないんです。まるで昔おきたことの記憶が開きそうで開かないような。」
あいにく男は精神・神経系は専門外だったため、たいしたアドバイスをかけられず、少女は去っていった。
再び部屋に入り、女にそのことを告げた。すると女は何ということなしに言葉を返した。
「それは仕方ないことよ。彼は今、事件を忘れようと記憶にふたをしようとしている。でも事件の記憶はその蓋を破って彼を飲み込もうとしている。その葛藤が彼の精神を不安定にしているのよ。」
さすが専門家は理解していると男は素直に感心した。
「ところで、あなた自身はどうなの?」
「おっと、忘れるところだった。ここからは雑談じゃなくて、カウンセリングで頼む。」
そういうと男は部屋にある患者用のソファーに腰を掛けた。
彼が今日ここを訪れた二つ目の理由がこれである。患者同様彼自身も彼女のカウンセリングを定期的に受信しているのだ。もっとも彼の場合は事件以前から受診していた。
「まずソファーに横になって。そして目を閉じて頭に浮かんできたものを教えて。」
その言葉通り、男は目を閉じ、深い自分のない世界へと足を踏み入れた。
Ⅴ
「いいよな。どっかの天才は俺たちと違って優秀だものな。」
学生時代に何度こういった嫌味を言われてきただろうか。実際彼は学生時代は勉学では好成績であった。 しかし、それは彼の人一倍の努力によるものであった。だが、心なき愚民たちは嫉妬のあまり彼に罵声を浴びせ、のけ者にした。そのたびに彼は口惜しさと憎しみを覚えた。
そして、他人に感謝されたい、喜ばれたいという強い願いから、医師の道を歩むことにしたのだった。
「医者になったからって偉そうだな。」
「腕の悪い医者なんて使えないゴミだよ。」
大学の医学部を卒業し、医師として働くようになってからも彼の苦労は絶えなかった。勉学は優秀な彼であったが、臨床はそうもいかなかった。人の命がかかっているという重圧から、どれだけの努力を重ねても彼の医師としての腕は一向に上がらなかった。オペは失敗ばかり、医者の息子でもない、付属医大出身でもないそんなダメ医者の彼はやっとつかんだ医師という場所ですら孤立してしまうのであった。
「死ねよクズ。」
「マジキモイから消えろよ。」
「腕の悪い医者は死んだほうがマシ。」
「君、生きている価値ないよ。」
数えきれない声が男を囲み、埋め尽くす。その声は彼を奈落の底へと引きずり込む。
「やめろ、やめてくれ! 」
男は天高くに見えるわずかな光に手を伸ばして叫んだ。
そこで彼は目を覚ました。
「大丈夫? かなりうなされていたよ。」
カウンセラーの女が心配してかけよる。カウンセリングの途中、ソファーで横になったのち、眠ってしまっていたことに気がついた。
「どうして俺ばっかり嫌われるんだ! あんな奴ら消えちまえばいいんだ! 」
男の悲しみと怒りの混ざった声が部屋に響く。
「だめよ。憎しみや怒りを表に出しては。あなた自身が呑み込まれてしまうわ。」
女は男の手を握って、こう続けた。
「それにあなたは立派に患者さんを助けて、感謝されているじゃない。それを誇りに思うべきよ。」
しかし、男は彼女の手を振り払って言い放った。
「慰めなんて欲しくない。君に何が分かる。それに俺がうまくいった手術は一連の事件の被害者のものだけだ。所詮俺はダメ医者のままなんだよ。」
自分の無力感に男はどうすることも出来なかった。そして女もそんな彼にどうしてあげることがよいのかわからなかった。
Ⅵ
グサッ
暗い夜道の中、会社帰りのサラリーマンの腹部にナイフが突き刺さる。引き抜かれた後の傷口からあふれる血が男性のワイシャツを染め上げる。
「痛い。死にたくない。」
男性の悲鳴を後ろに、一仕事終えたケモノはその場を後にした。
「大丈夫ダヨ。急所は外シテイルシ、死ナナイ程度ニシカ血モ出テナイヨ。」
あたりに聞こえないほどの小さな声で、ケモノは呟く。
ふと前を向くと、電柱の下に人影が見えた。その姿が誰なのかケモノには即座に識別できた。
「タダイマ、オネエチャン。」
その言葉とともに黒い人影が女の姿を現した。
「お帰りなさい。ちゃんとほかの人に気付かれないところでやってきたでしょうね? 」
ケモノは女のそばに駆け寄り、首を縦に振った。
「ウン。モチロンダヨ。」
「まさか殺してないわよね? 」
ケモノは大きく首を横に振る。
「チャント手加減シテキタヨ。全部オネエチャンノ言ウ通リニヤッタカラ大丈夫。」
「そう、いい子ね。偉い偉い。」
女はケモノの頭をなでて褒めた。
照れ臭そうにしながらケモノは問いかけた。
「エヘヘ。デモヤッパリ、ナンダカ物足リナイナ。ホントニ殺シチャダメナノ?」
「だめよ。だめだめ。あとで病院で助けられるようにするには殺しちゃだめでしょ。」
「ウン。ワカッタヨ。」
二人だけの仲睦まじいひと時。
しかし、やがて女の顔は悲しみと辛さにあふれたものに変わった。
「それとね、今日はもう一つやってもらうことがあるの。」
「ナニ?誰ヲヤレバイイノ? 」
数秒の間をあけて女は告げた。
「あたしよ。そのナイフであたしを刺して。」
ケモノはひどく動揺した。
「エ? オネエチャンナニ言ッテ・・・・」
「いいからやりなさい!」
女がケモノを叱りつける。
震える手を抑えてナイフを腹部に突き付けた。
グサリ
鈍い音がして、刃先が女の腹部に埋まった。
動揺するケモノに女は笑顔を向けた。
「そうよ。いい子ね。今晩も帰ったらすぐ寝るのよ? 」
ケモノは黙ってうなずく。
「じゃあ行きなさい。お姉ちゃんのわがままに付き合ってくれてありがとう。さよなら。」
女はそう言うと、最後にケモノを強く抱きしめた。
ケモノはあふれる涙がとまらぬままにその場を後にした。家に帰ると、女の言いつけ通りすぐに布団に入り眠りについた。
Ⅶ
走り去るケモノの姿を見送った後、刺されたままのナイフを女は自ら引き抜いた。
あふれ出る血とともに、痛みで体中に広がっていく。
痛みで麻痺し始めていた腕を懸命に動かし、彼女は服のポケットから一枚の写真を取り出した。
写真に写る1人の男を見つめながら、女は笑みを浮かべ、その男とのこれまでの記憶をよみがえらせていた。
「初めて会った時から大好きだったよ。」
女は写真の男に語りかけた。
彼女が初めて彼に会ったのは二年前のことである。彼女が勤務する病院のカウンセリングルームに、彼は患者として訪れた。
その時に彼女の心は彼一色で染まった。
カウンセリングを経て彼女には彼の様々な事情が分かっていった。
彼は努力を認めてもらえない暗い過去を背負っており、医師となった現在も命を扱うプレッシャーから活躍できずにいた。念願の医師になれたものの、人に感謝されるという自分の希望を失いかけていた。そればかりか心の奥底に溜まった憎しみやストレスが爆発しかけていた。
女はそんな彼を救いたかったのだ。たとえそれがカウンセラーの範疇を超えていても。たとえそれがどんなに他人を傷つけたとしても。
やがて彼のストレスや憎しみは凶暴な「ケモノ」とも言える裏人格となり彼の睡眠時に現れるようになった。いわゆる夢遊病である。
彼女は彼の凶暴な裏人格を深夜に暴れさせ、彼のストレスのはけ口を作ることを思いついた。
カウンセリングに来た彼に特殊な催眠術をかけ、実践させてみると予想外の結果を発揮した。
表人格の彼には「ケモノ」の記憶は残らない。
しかし、曲がりなりにも自らが付けた傷だからだろうか。眠りから覚めた彼は無意識に負わせた傷に最適な処置を施し、被害者を自ら救った。
以来彼女は彼に、寝ている間に人を襲い、目が覚めるとその人を襲うという流れを定期的に行わせるようになった。
無論簡単ではなかった。万が一被害者が死亡するようなことがあっては元も子もない。幸い彼の裏人格は凶暴でありながらも愛情に飢えており、彼女に非常になついていた。それ故に今日という日まで即死にならない程度のけがを負わせるということができてきたのである。
だが、それも今日で終わりである。
昼間訪れた彼を見て、彼女は気づいたのだ。自分のしていることが何の意味もないことに。結局彼の心を救えていないことに。
血のあふれ出る腹部の傷に手を当てる。
「これは私への罰。彼を救えなかった私への罰。」
再び写真の彼を見つめる。
「どうか、幸せになってくれますように。」
薄れゆく意識の中、彼女は天に祈った。
月夜の光が彼女の涙を輝かせ、最後の希望を照らした。
Ⅷ
電話が鳴った。
「先生、急患です。大至急病院まで来てください。」
男は眠たい目をこすり、顔を洗い大急ぎで支度をする。なんだか悲しい夢を見た気がしたが、その内容までは思い出せなかった。
外に出てみると先ほどまでの明るい月は雲に隠れ、暗い闇が広がっていた。
なぜかその日、男はこの後の手術が失敗するような気がしてならなかった。
光り輝く月も星も太陽も彼を照らすことはなかった。
了
朝日を見ると希望よりも疲労感を感じてしまう今日この頃