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その9

 翌朝、長は配下の魔術師たちを一同に集め、王城からの通告を伝えた。

「炎魔を見事湖に封じし働きは重畳至極。本日をもってこの砦の全ての者の任を解く。長は引き続き監視役として残し、他の者は全て王城にて新たな任を授ける。速やかに支度し明朝には出立。以上」

 魔術師たちは無言で一礼すると大広間から出て行き、あとにはリュークだけが残された。若き錬金術師は、歩み寄る老魔術師の顔に微かな笑みを認めた。

「なんだ? 訝しげな顔をしておるではないか」

「よろしいのですか? これでは左遷も同然では」

「かまわぬ。この歳になって意に添わぬ任務でこき使われたくはない。あの者どもはそうもゆくまいが、いずれもこの地で災いに抗してきた者ばかり。やすやすと王宮の傀儡にはならぬと信じられる。それにわしの役目はまだ終わっておらぬのだからな」

 いっそう訝る青年を、老人は曰くありげに見つめて続けた。

「いくぞ。今ならそなたたちも心ゆくまでその目で確かめられるはず。徒歩の道行きとなるがよいな?」



----------



 峠は確かに急峻ではあったが、道のり自体は思いのほか短かった。リュークは吸血鬼の脅威がいかに差し迫ったものであったか今さらながら慄然としつつ、年齢を思えば驚くべき足取りで導く老魔術師に続いて峠を登りきった。そして視野に飛び込んできた光景に目を見開いた。

 巨大な青い鏡だった。雲一つない夏空の蒼をさらに深め、氷を秘めた湖全体が碧一色に染まりながらも遙かな大空を映しているのだ。すでに狭い岸辺や急峻な山肌に雪はなく、その地肌の色が巨大な鏡を縁取っていた。あまりの雄大さ、美しさに圧倒されて立ち尽くす若き錬金術師の隣で、老いたる魔術師が呟いた。

「この湖はその昔、青龍の湖と呼ばれておった。青き龍が住んでおった湖の一つとのいい伝えと共に。されどその姿を実際に見た者はなく、湖もまた三百年の長きに渡り雪と氷に閉ざされ本来の姿を見せるには至らなんだ。それを元に戻したのが青き龍神族であったとは……」

 やがて老人に促され、青年も峠を下り始めた。



 湖畔に佇む長を残し、リュークは未だ溶け切らぬ氷を踏み湖の中央へと進んだ。変身して潜った湖面からは陽の光が差し込み、青き鱗を淡く包んだ。仄かな光を帯びた龍神族の少年は深みへと潜っていったが、その目は光薄れゆく湖水をなおも見通し続け、やがて湖底に立つ巨大な影を見いだした。

 それは背を真っ直ぐ伸ばし、無貌の頭部を僅かに俯かせたまま立ち尽くしていた。あたかも胸の前に掲げた巨大な右手から覗く小さな顔を慈しむもののごとく。

 黒髪の少女の蝋のような顔には未だあの淡い表情が留められていたが、その身を戒める手つきは厳しく苛むというよりもむしろ恭しげでさえあった。それはまるで人の世から放逐された者たちが身を寄せ合ってでもいるような、哀しげな中にも安らぎめいたものを感じられる、少なくともそう願いたくなるすがただった。一つの体の二人は悟った。あのとき砦の長はこの場での振る舞いのみならず、自分たちの思いをも見通していたのだと。ガルドがぽつりと呟いた。

「やっぱ苦手だ、ああいう爺さん……」



「これが通行手形だ。急ぎノールドから去るがよい。そなたの術が王宮の耳に入らぬうちに。それともう一つ、そなたたち二人に託したいものがある」

 老魔術師が取り出したのは羊皮紙の束だった。そこには未知の術式と、それにまつわるものとおぼしき記述がびっしり書き込まれていた。

「これは、まさか……」

 羊皮紙から顔をあげた若者に老人は頷いた。

「さよう、これこそ古のアルデガンから伝わりし吸血鬼を滅する呪式を写したものだ。砦で研究が続けられてきたが、今後は王宮が引き継ぐことになるものの、本腰を入れて取り組むとはとても思えぬ。わしはこの湖を見張りつつ余生をこの探求に捧げるが、残された年月を思えば心許ない。どうだ、そなたらのその思いに免じ、これを託されてはくれまいか」

「三百年も解き明かせなかった術式を、なぜ私たちなどに?」

「そなたらの思いが鍵になると感じるゆえ」

 老魔術師は羊皮紙に視線を移した。

「実のところ、術式そのものの意味はほぼ解明されておるのだ。だが唱える者に対しこの術式が求めるものが、我らには理不尽としか思えぬものだった。世界を破滅に導く怪物の互いに囚えあう魂と肉体を同時に浄化するため要求される慈悲の心は、生き身で聖者になるも同然の難事としか見えなんだ」

 老人が顔をあげ、一つの体の二人をまっすぐ見つめた。

「だがそなたたちの成したことは、もはやそれに近いとわしには思える。あれと直に向き合い命がけのつばぜり合いを演じつつ、それでもあれに寄せた思いの深さに感じるのだ。人と人ならぬ身の二心を一つ身に宿すそなたたちだからこそ、見えるものもあるのだと。そしておそらくそなたらの願いこそが、この術の根幹をなす心に通じるものとわしは信じる」

「私たちは未熟者にすぎません。あのときも二人してただ自分の思いを持て余すばかりだったのですから。でも」

 リュークは写しを受け取り、その感触を確かめつつ応えた。

「確かに私たちは願いました。まだ自分たちが見いだせずにいるものを。それを見つけることができたとき、この場に必ずや戻ることにいたします」


 老人は若者たちを峠の坂の登り口まで見送りにきた。

「わしはここに庵を結ぶ。もしそなたたちがここに荒廃しか見いだせぬならば、そのときは墓を探すがよい。モランドと刻まれておれば、そこでわしの知り得たすべてが得られよう」

「あなたの探求の日々に、導きの星の加護を祈ります」

「そなたたちの道行きにも、幸いの星が瞬かんことを」

 そしてリュークはモランドと別れ、峠の坂を登り始めた。



 峠の上で振り返ったとき、湖の色はさらに深みを増していた。見つめるリュークの脳裏に、ガルドの声が響く。

”なあ。見つけられるかな、オレたち”

「ああ。二人で探せば、いつかきっと」

 そして二人は歩き始めた。夏空のもと、湖が送る涼風を一つの背中で感じつつ。




                                 終


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