4、選択
さて、わかった、みんなアーティストなんだろう、つまり、今、ここにいる私も、アーティストなんだろ、と、ならば少し書いてみよう、作ってみよう、描いてみようと、なにがしかの創作を行う。そして、記念すべき出来上がった第一号に、うん?と頭をひねる。そして、二作目、三作目と、重ねて行く中で、私がアーティストなんて嘘っぱちだ、ほら、こんなにも、下手なものしかない、みてみろ、あっち側のアーティストの作品は、あんなにも素晴らしいのに、私はこれだ、どうだ、それでも、私のことをアーティストと呼ぶのか、という疑念にとらわれ、私がアーティストなんて嘘っぱちだ、と筆を折ってしまう。そして、また、胸の奥にくすぶる思いと、憧れを押し込んで、じっと、あちら側を、すねた気持ちで見つめるのだ。
勘違いしないでほしい。アーティストとは、自分の、生まれもった創造性に素直で、なによりも創造すること自体を愛するひとたちのことだ。メディアで持ちあげられる自己破滅的な、脚光を浴びる偽のアーティストに惑わされてはならない。そして、自分の生活を見直してほしい。私たちは、ジャンクフードのようなマスメディアの言葉を浴びなれたせいで、己の創造性に従った選択ができないでいる。
ならば、今すぐに、アーティストとしての生活にシフトしていこう。アーティストらしく、己の内なる創造性に従って、自分の美的直感、感性を使って、飛び切りの贅沢をしよう。何も、高級なものを買えばいいというだけではない。私は、ターコイズブルーの美しく繊細な紋様が施されたペルシャ風のマグカップを買った。遠いペルシャを思い起こすそのマグにチャイを入れると、それだけで私の心は遠い異国まで飛んでいく。自分の霊性に触れる何かを、取り入れてほしい。特にアンティークや、ハンドメイドの生活用品は、己の内なる美をそっと解放してくれるのに、とても貴重な存在だ。それらは、あるだけで、そっと、私たちの創造性に、働きかけてくれる。駆け出しのアーティストにこそ、古き善きもの、精神の贅沢を味わうことができるものが必要なのだ。
ここからは、余談だが、指物師として、とても有名だった方の娘さんとお話をする機会があった。
戦前は、彼女の父親の作品に、相場だとこれくらいだ、と言わずもがな、暗黙の了解で、作品に見合った額が支払われていた。しかし、戦後になると、彼女曰く、ずるいやつが増えた、と、ずっと安い値段で、彼の作品は取引されたらしい。私たちの、アートやアーティストに対する意識、敬いやおおらかさが、時代を経るにつれ、すり減ってしまったのだろうか。
これは自分のちょっとした願いでもあるが、アーティストとしてもう十分に活躍されている方(陶芸家、書家、画家、茶人etc)は、最近のやつらは見る目がなくなった、と嘆く前に、是非、あなたが見たものを、是非教えてほしい。その通り、私たちは、昔と違い、物を見る目を失ってしまったのだから。だからこそ、教えてほしい。一体、あなたが何を見ているのかを、何が、見えているのかを。