3、傷
家族からの暴力や暴言ほど、創造性をせき止めやすいものはない。
父親から突然の暴力や性的トラウマ、母親から不良債権、祖母から失敗作という陰口は、十年たって、今だ、胸の奥底にくすぶり続けている。そして、私は、傷ついたのだ、と認めるやいなや、心の中で彼らを罵倒し、涙する。身体反応として現れるぐらいの心の傷の前に、私は今だに右往左往している。
無条件に愛することができない彼らに対して、私たちは、異常に心を緊張させ、彼らの思った通りに、望むように演じる。子供こそ、無条件に親を愛している。だからこそ、彼らの勝手な理想に巻き込まれ、己を無くしていく。そして、自分が何をすればいいのか全く分からなくなる。見事に、指示待ちしか出来ない大人の出来上がりだ。
さて、重要なのは、私たちの心が傷ついてしまっていることだ。傷を負っているのにも関わらず、加害者を責め立てるのは、こちらもへとへとになってしまい、得策ではない。傷は、癒されなければならない、そっと手をあて、痛いの飛んでけ!と祈りながら。まず、それほどの(軽んじてはいけない、自分が思い通りに生きていない、生きづらいと思っているのなら、重要問題だ)傷を負いながら、生きている自分の魂の気高さ、美しさを、存分に誇ってほしい。あなたは美しい、それほどの傷を負いながらも、強かに生きている。何度言っても十分なことは無い。あなたは、美しい。傷を癒し、そして、さらに成長しようとしているのだから。
さて、創造性に話を戻そう。傷とともに、幼い私たちは、家族から傷つけられまいと、自由で創造的な自分を守るために、胸の奥底に押しやってしまう。まずは一つ安心してほしい、治らない傷はない。未だじくじくとした痛みはあるが、自由になるにつれ、少しずつ血はとまり、かさぶたができ、やがて、すっかりと治っていく。自由、つまり、自分に素直になることだ。ジュリア氏曰く、大半の創造的な人間は、わがままでなさすぎるらしい。だからこそ、十分に自分勝手だろうか、という問いが重みをもつ。アーティストであるなら、十分な自己があってこそ、表現が可能なのだから。
簡単なエクササイズだ。三十分だけでいい。あなたは素晴らしいアーティストだ、表現すべき自己を持ち、とても自分に素直だ、という風に、振る舞ってほしい。難しければ、五分だけでもいい。すれば、どれほどまで、自分の要求を抑圧しているか分かるだろう。
ピアノを弾きたいけど、きっと家族がうるさいと騒ぎ出すわ。
執筆の時間を取りたいけど、奇妙な目できっと見てくるわ。
歌いけれども、狂った人と思われるだろう。
もっともらしい言い訳から、自由になろう。
ピアノ?大好きだわ、美しく弾く度に、みんなうっとりするわ。
ほら、この文、とっても魅力的で、今までにないリズムだわ。
気分がいい、リズムよく、勝手にメロディーが喉からこぼれる。
素直の感覚は決して忘れないでほしい。これが、アーティストとして自己の表現を踏み出した一歩なのだから。