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作者: acon

 雨が落ちる心配はないけれど一日太陽を拝むことはなさそうな空を見上げながら、笙子は機械的に手を動かしていた。

 ぺちぺちというやる気のない拍手の音が周囲のリズムから少し浮いていることに本人は気がついていない。学舎から去って行く者を見送るための列は今はもう最初の整然とした形から崩れて、思いのままにまだらな模様を生徒玄関前に作っっている。すすり泣きがあり、笑顔の抱擁があり、人垣の向こうには一人の男子生徒が中空に放り投げられる姿まで遠目に見えた。そんな彼らの様子をぼんやりと視界の端に認めて、笙子はいい加減真面目に拍手を続けている者がいないことに気がついた。

 目の前で繰り広げられる様々な別れの一幕から目をそらし、笙子は背後にそびえる校舎を見つめた。教員を含めた全員が外に出ているため建物の中に人気はなく、白や桃色の花飾りが薄暗い教室の窓の奥に沈んで見えた。

 笙子にはあと1年、この学舎で学ぶべき時間が残っている。今日の主役はここを去る人々で、彼らとはとりあえずは今日が別れの日だった。進学先や就職先が同じにでもならない限り、それはとりあえずではなくなり、場合によっては今生の別れともなり得るだろう。いや、おそらく大部分の人間とはそうなるのだ。再会の約束など、果たされる方が奇跡で、だから今日は本当に最後の日なのだと、笙子は思う。姿を見られなくなるとか、機会がなくなるなんて生易しいものではない。今日の後に、誰かを思う自分を想像することなどできない。今日は誰かを思う私の最期の日だ。

 そんな暗澹たる思いに浸ることで現実の光景から目をそらす自分を自覚しながら、それでも笙子は人垣をかき分けて今日巣立っていく人を探しに行くための一歩を踏み出すことができなかった。顔を見れば泣いてしまうだろうし、自分が泣けばあの人は慰めてくれるだろう。その勢いで思いを告げることもできるかもしれない。

 しかし、それに対する答えがどんなものであっても、笙子にはどうしても明日から広がっていく距離に勝てる気がしなかった。あの人の新しい友人や生活の重みに対して、すでに去った場所に残してきた一人の後輩がどれほどの存在になれるだろう。三ヶ月先か半年先かは分からない。けれど、そう遠くない未来、笙子自身が転校していった級友の顔をもうはっきりとは思い出せないように、送り出してくれた可愛い後輩たちの別れの言葉を忘れてしまったように、今度は笙子があの人の思い出になる。生きている者を思い出にしてしまう力に対して、人間は抵抗する術をもたない。そのことを笙子はまだ十数年の人生の中で確信していた。

 そうなるくらいなら、と笙子は別れの場に背を向け、校舎へ戻るべく大きく足を踏み出した。地面には卒業生の胸から落ちた花がいくつも踏み散らかされている。新しい季節を告げる本物の花が咲き始めるのはもう少し先で、頭上の木々はまだ寒々しい。ほんの少し距離をとっただけで、生徒たちの声は遠くなり、判別できない低い音の波になった。ざしゅざしゅとアスファルトを蹴る自分の靴先が少しはげている。

 校舎に戻るまでの短い道のりの光景を、笙子はすくい取るように一つ一つ胸に収めた。収めたきり二度と取り出して眺めようとも思わないようなものだけを残しておきたかった。

「待って」

 その声とともに笙子の視界がぐるりと回り、暗い校舎は次の瞬間同じ制服に身を包んだ卒業生の上気した顔に変わった。その顔を認めた時、笙子は胸の中心の一部が凍り付いたような気がした。

「お別れを言いたくて」

 笙子は掴まれた腕に力を込めることもできず、呆然と目の前の人間が息を整えるのを待った。発見され、捕まってしまった時点で、もはや笙子にできることはなかった。

「今までありがとう、今日でさよならだけど」

 言葉を続ける人の胸に咲く一輪の花を凝視しながら、笙子はせめてと願い、拳を握りしめた。続く言葉を聞かずにすむために、今この瞬間に鼓膜が裂けてしまえばいいと思った。

「また会おう。必ずね」

 ぼとりと一粒、涙が地面に落ちた。

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