第五話 - ドラゴン・ポゼッション / ルナン誘拐事件
昼下がりの会議室。
「――以上が、ポゼッションの発祥と原理だ。分かったか?」
「にゅ、ニュアンスは……」
「全部大魔道士さんのおかげスラ!」
レインの五時間にも及ぶ講義は一言で締め括られてしまった。少し悲しみを覚える。
ともあれ、これで教えるべきことは大体教え切った。後は実践である。
「よし、じゃあ裏庭に行くぞ」
「ってことは……」
「ドラゴン・ポゼッションの練習だ」
「来た来た来たぁっ! やっとドラゴンに会えるのね!!」
ミラナは椅子から飛び上がり、両手でガッツポーズを決める。
その舞い上がり様を見てレインは苦笑する。
「なんだ、そんなに嬉しいのか」
「当たり前でしょ! ていうか今の今まで一度もドラゴンの姿を見てないんだけどっ! 本当にいるんで
しょうね!?」
「無論だ。まぁ、あいつは放っとけば日に二十時間は寝てるからな。顔を合わせないのも無理はねェ」
「……過眠症? ドラゴンなのに?」
ミラナの顔が途端に曇る。
「ローザはお婆ちゃんだからずっと寝てるスラ」
「本当に、大丈夫なんでしょうね……」
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クロフォード邸、裏庭。高い外壁に囲まれた、本当に何もないただの庭。
草むしりをサボっていたはずの地面には、ぽつぽつと思い出したように雑草が生えている。
レインは背後にローザを引き連れて、先に待っていた二人の下へとやって来た。
待ちかねたミラナの顔が、ぱぁっと期待に晴れ上がる。
「ドラっ――」
そしてきょとんとして、そのまま翠石の視線は地面の上へ。
「――ゴン?」
そこには、確かに赤鱗のドラゴンが二本の足で立っていた。
身の丈の倍もあろうかという鉤爪が生えた翼に、鋭い金色の眼光。
サイズは、大型犬に翼を生やしたぐらいだろうか。
「お、思ってたのと違う……」
唖然とするミラナに、レインは冷たい視線を送る。
「モンスターは無害な生物になったと教えただろうが。ポゼッションがなけりゃ今のモンスターは戦えねェんだ」
「そうだけどさぁ……」
ミラナは納得いかない様子だったが、思い決めたように頷いて、
「よろしくね、ローザ!」
「ぐるるる」
「あれ? 嫌われてる? ねぇ、何か言ってよ」
ミラナは困った顔で、ローザの前にしゃがみ込む。
その隣にスララがちょこちょこと駆けてきて、
「ローザは喋らないスラ!」
「えー! スララは喋るのに! なんでよ!?」
「それはスララが特別だからスラ!」
ない胸を張って、スララは「えへん」と偉そうにする。
が、別にスララが凄い訳でもない。レインは一応補足をする。
「人型のモンスター以外は大抵喋らん。発声器官の問題だろうな」
「でも、それじゃ意志疎通ができないじゃない」
「問題ない。こっちの言うことは通じるし、ポゼッションがあるからな」
ポゼッションで同化した状態なら、寄生魔の思考も直接伝えることができる。無用な心配だ。
「納得したか? 今からポゼッションについての指導を始めるが……その前に一つ」
膝の高さから見上げているミラナの顔を、レインはじっと見下ろす。
それだけでミラナはすぐに怯んで、
「な、なに?」
「今から教えることは口外禁止だ。もし漏らすようなことがあれば、破門……だけじゃ済まねェかもしれん」
ミラナは真面目な顔になって、その場に立ち上がる。
「どういうこと?」
「今から俺はお前に、スライムとドラゴンについての特性を説明する。強さも、弱さも、何もかもだ。それが悪意ある者に知られてしまえば、たちまち俺達の命は危険に晒されるかもしれん」
ミラナは毒を飲んだような顔をして、
「……絶対に言わないわよ」
「良し。では、まず先に俺がやるとしよう。スララ!」
「うぃ~!」
スララはやる気満々に両手をぶんぶんと振り回す。
「スライム・ポゼッション!」
いつも通り。何百回と繰り返してきた手順。青光と共に変身は完了する。
レインの全身は青色のスライムになった。
ミラナの方に向き直る。
「昨日、スララとポゼッションしたんだろ? その時はどんなことができた?」
「うーん……気持ち悪くて、ただボコられてただけだったから……」
まぁそんなものだろうな、とレインは内心思う。
初めてのポゼッションでまともに動ける人間の方が少ない。スライム・ポゼッションならなおさらだ。
「宿主には寄生魔との適応度があってな。それによって体の作りが変わった
り、能力が増えたりするんだ。――見てろ」
伸ばしたレインの右腕がぐんぐんと伸びて、ミラナの手首を掴む。
「うひゃっ」
「これが変形。別に元の体の形状に拘る必要もない」
今度はレインの腹部から新たな腕が生えて、もう一方のミラナの手首を掴む。
そのまま、レインの手は氷のように固まる。
「硬化だ。硬さも適応度に左右されてくる」
「これが、あたしと戦った時の……」
伸ばしていた二本の腕が、音もなく千切れる。
腕はミラナの手首を掴んでぶら下がっていたが、すぐに地面にぼとりと落ちた。
「痛くも痒くもないが、このままの状態で戻ったら体が欠け落ちるからな」
びくり、とミラナの体が跳ねる。どうやらこのことは知っているようだ。
そういえば、アルヴァがそんな話をしていた気がする。間一髪だったとか。
「ま、そんなとこか。後、スライムの体は冷気に弱いし、炎もダメだ。蒸発して小さくなっちまう」
レインは今度は左腕を伸ばして、地面に落ちた腕を吸い上げて回収する。
肩口からなくなっていた右腕が、にゅいと生える。
「小さくなったらどうなるの?」
「戻った時に、背が縮むな」
「……それだけ?」
「多少ならな」
ミラナの顔が怪訝になる。納得行かなそうな顔をしている。
「それって治らないの?」
「ポゼッションしたまま水を飲めば治るな」
ミラナは何故か心底呆れた顔をした。
「単っ純な体……」
「まぁそれがスライムの強みでもある。後、目も弱点か……そんなとこだ」
レインは自分の顎を指で弾く。顔全体がぷるぷると震える。
「なんか覚えること多いわね……」
「ドラゴンはもう少しシンプルだ。硬い鱗の鎧に、長い爪。強靭な筋肉。口から吐く炎。背には空を飛べる翼。最初はそんなもんだ」
「ふーん……適応度が上がると?」
「背の丈が十メートルを超える」
「……からかってるでしょ」
ミラナのじとっとした視線がレインを舐める。
だが、まるっきり嘘を言うわけでもない。
「理論上は間違っちゃいねェ。ポゼッションはモンスターの最盛期の力を再現しようって試みだからな。極めるほどモンスターに近付く。まぁ、姉さん――先代のドラゴンの宿主でも最大四メートルが限界だったみたいだが」
ミラナは眉を顰めて今度はローザの方を見ている。レインの話が信じられないようだ。
「まぁ、やってみろ。暴れ出しても俺がしっかり止めてやる」
「やっぱ、また暴れる……?」
ミラナは怯えた顔でレインを見上げてきた。
レインは悪い笑みを浮かべて、それを見下ろす。
「初めてのポゼッションでおとなしかったやつを俺は見たことがない」
「初めてじゃ、ないんだけどなぁ……」
ミラナは拗ねたように呟くと、神に祈るように手を擦り合わせた。
そして、意を決したように深く頷く。
「やる」
「おう。やれ」
「頼むわね、ローザ。――ドラゴン・ポゼッション!!」
翼を広げたローザの姿が、赤い光の粒になって弾ける。光はゆっくりとミラナの体に吸い込まれていく。
赤い光が視界を奪い、唐突にミラナの体から白い光が一瞬迸った。
それで、変身は完了した。
背丈は変わっていない。ミラナの全身は服の上からぴったりと赤い鱗に覆われ、足先から顎下までガードされている。
波打つ茶色の髪のてっぺんには小さな二本の白い角。
爪の長さは三十センチほどと短く、背の翼も凄く小さい。恐らく飛ぶことはできないだろう。
が、初めてのドラゴン・ポゼッションにしては上出来だった。
(良い感じスラ!)
「おう。だがな……」
レインは伝わってくるスララの声に答えながら、注意深くミラナの動向を見守っている。
「あっ、アアッ……!!」
ミラナは寒気に見舞われたように自分の体を抱き締め、目を見開いて小刻みに震えだす。
「だっ、だめぇっ……先生っ、あたしもう、ダメになっちゃう……!!」
叫ぶミラナの頬は上気していて、苦しそうに「はぁはぁ」と肩で息をしている。
こんなことを思ってはいけないと思うのだが――どうにも煽情的な姿だった。
(……だぁりん、えっちなこと考えてるスラ)
こういう時に思考が伝わるのは不便だと思う。
「ごめん、ローザ!!」
ミラナは体内の相棒に謝罪を叫びながら、レインに飛び掛かってきた。振り上げた爪が日光を浴びてぎらりと輝く。
振り下ろされるよりも先に、レインの伸ばした腕がミラナの腕ににゅるにゅると巻き付いた。そのまま硬化して動きを封じる。もう片方の腕も同じように固めてしまう。
「うぅ~!!」
両腕を捕まえられても、ミラナは駄々っ子のように暴れてレインの体を振り回す。
小さな体に見合わない剛力。ドラゴン・ポゼッションによる筋力増強の賜物だ。
レインは足を竜のような鉤爪の形に変え、更に硬化させて地面に突き立てた。
目論みは成功して、ミラナの体はその場に釘付けになる。
「あっ、はぁっ……!!」
何故だかミラナは嬉しそうに息を漏らす。溢れるパワーに精神が昂っているのか。
「満喫したか?」
見下ろして訊ねるレインを、ミラナは緩慢な動きで見上げてきた。
そして、返事の代わりにあんぐりと開かれる大口。
(だぁりんっ!!)
「ぐっ……!」
レインは肩口の硬化を緩めながら、咄嗟にミラナの股下に足から飛び込んだ。
頭上を豪炎が掠めて、少しだけ蒸発する。間一髪だ。
安心したのも束の間、
(だぁりん、おうちが燃えちゃうスラ~!!)
レインは目を見開き、肩でミラナの両足を持ち上げた。腕を固定されたミラナの体はその場で九十度回転し、顔は空の方を向く。
吐かれた炎が外壁の高さを越えて、天高く昇っていく。
壁の向こうから、がやがやと人が騒ぎ立てる声がしている。
きっとしばらくは、ご近所様のニュースになってしまうんだろうな……。
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夜の貧民街。明かりはほとんど存在せず、室内から漏れている光か客引きが持っている燭台の炎だけを頼りに歩みを進める。
「お兄さん、今晩どう? 半額で良いよ!」
「悪い。今日は用事があるんだ」
若い娼婦達の誘いを、レインは毎度律儀に断っていく。元より女を買う気も、買ったことすらもなかったが、だからといって邪険に扱う気もなかった。
足元を何かが通った。黒猫だ。
足を止めて揺れる尻尾を視線で追いかけていると、目的の店が見えた。
『ケイトの酒処』
レインは肩で風を切りながら、店の中に足を踏み入れた。
「だぁー! また負けちまったぁっ!!」
身形の汚い中年が椅子から飛び上がり、頭を抱えて叫ぶ。どうやらカード賭博をやっているらしい。
レインは店の中を見回してみる。
黒を基調とした、洒落ている内装の店だ。客層はもっぱら貧民街のごろつきや娼婦達のようだが、すべてのテーブルは客で埋まっている。大繁盛だ。
そして何より、皆が皆楽しそうにしている。その空気に浸るだけで、なんとなく楽しい気分になるから不思議だ。
レインは空いているカウンター席の方に向かう。待ち人はそこにいるはずだった。
「おい、兄ちゃん。カード賭博に興味ねえか?」
先程負けを叫んでいた男が、レインのことを呼び止める。
レインは大げさに肩を竦めて、
「あいにくと。金を賭けないならやっても良いが」
「それじゃ賭博にならないだろうがよっ!」
わははは、とテーブルが沸く。レインは手を軽く振ってその場を後にする。
下着のような格好をした少女がいきなりレインの前に飛び出して来て、
「いらっしゃいお客さん。初めてですか? テーブルの方は今ちょおっと埋まっちゃってるんですけどぉ」
「カウンターで良い。ケイトはいるか?」
「ありゃ、姐さんのお知り合いで。カウンターの奥でヤニ吸ってると思いますけどぉ」
「そうか。分かった」
レインは片手を上げて感謝の意を示して、そのままカウンターの方へとやって来た。
少女の言った通り、ケイトはカウンター奥の椅子に座って、ぼおっと煙草を吸っていた。
完全にオフの状態だった。
レインは横目でカウンターの端に座る男の存在を確認する。
客層に合わない黒の礼服を着込んだ眼鏡の男が、グラスに入ったミルクをちびちびと飲んでいる。
ぱっと見た印象は、貴族に仕える従者といったところだ。明らかに浮いている。
「あらぁん、お兄さんじゃないの」
ケイトがレインの存在に気付いて、嬉しそうにカウンターから身を乗り出した。
ドレスの緩い胸元から、豊満な胸が惜し気もなく晒されている。……凄い光景だ。
レインの視線に気付いたケイトが、「んふー」と楽しそうな息を漏らした。
レインは気を取り直して、
「よう。あれから被害はないか?」
「おかげ様でね~。何飲む?」
「強くない酒」
「じゃ、麦酒ね」
ケイトは煙草の火を揉み消すと、カウンターの下から金属製のコップを取り出し、
棚上の樽の側面から生えた蛇口を捻る。あっという間に麦酒が注がれた。
「今日はどしたの? もしかして、あたしに会いたくなっちゃった?」
ケイトは媚びるような上目遣いでレインのことを見つめながら、コップをレインに手渡してくる。
冷たい手触りが心地良い。
「いや、今日はあいつに用があってな」
レインは空いた方の親指で、端の席に座る男を指し示した。
ケイトは不機嫌そうに紅色の唇を尖らせて、
「まぁ、知ってたけどさ」
「悪いな」
適当に謝りながら、コップの麦酒に口を付ける。
「やっぱり男が好きなのね」
「――げふぉっ! げふぉっ!」
飲んだ酒が気道に入って、壮大にむせ上がった。
何故ケイトにそんな勘違いをされているのか。
というか、「やっぱり」ってなんだ。
「……誤解だ、それは」
「あらまぁ。あたしの誘いを蹴ったからてっきり」
「それだけでか」
「後、マッチョは男にモテるの」
真面目な顔で言うケイトに、レインはがっくりと肩を落とす。
同性にモテることと、レインの性的嗜好とはまったく関連がないはずだった。
「下らねェ情報、感謝する。んじゃ、ちょっくら話して来る」
「はぁい、また後でねん」
ひらひらと手を振るケイトを一瞥し、レインは麦酒の入ったコップを引っ掴んで、
例の男の隣の席に移動する。
男はグラスの中のミルクに視線を落としたまま、
「レイン・クロフォード様でしょうか?」
「……ああ。人手を欲しがってるって聞いたんだが」
「はい。優秀な寄生魔の宿主の力が必要なのです」
男の顔がようやくレインの方を向く。眼鏡の奥で光る目は細く、鋭く、抜け目のない印象を受ける。
「まぁ、とりあえず話を聞こうか。個室を借りよう」
レインは振り返り、興味津々にやり取りを覗き見ていたケイトを呼び寄せた。
「部屋代、銅貨十五枚よ」
「ん……」
レインはズボンのポケットをまさぐり、見つけた一枚をケイトに向かって指で弾いた。
金貨だった。
ケイトは嫌そうな顔をして、
「お兄さん、金貨はちょっと。お釣り用意できないわよ」
「釣りはいい。次からは手ぶらで来るから、その時にタダで飲ませろ」
「あら……まぁ、それなら良いけどさ。はい、サービス」
ケイトは薄切りのチーズが乗った小皿を出してきた。黒胡椒が練り込まれている。高級品だ。
「そこのドアの中ね。注文があればドア開けて手ぇ振って」
「だ、そうだ」
レインはコップと小皿を両手に持って立ち上がる。
男は自分のミルクのグラスを掴んで立ち上がると、レインに先立ってドアを開けてくれた。
個室の中はやたらと狭く、テーブル一つでスペースの八割方を使ってしまっていた。
レインは肩で壁を擦りながら奥の席に座った。
外の喧騒はぐんと遠くなり、たまに叫び声が小さく聞こえてくる程度だ。
防音性としては申し分なく、普通に話す分には外に漏れることはないだろう。
執事然とした男も背筋を伸ばしてレインの対面に座ると、行儀良く膝に手を置いた状態で口を開いた。
「名乗りが遅れたことをお詫び申し上げます。私はバレック・ヴィンセント。ハルキア伯爵が嫡子であられるエージェ子爵にお仕えしている身分でございます」
「レイン・クロフォードだ。東区で寄生魔を使った便利屋をやってる」
「ご噂の方はかねがね。シブリア戦役では大変ご活躍だったことと伺っております」
そっちの方か、とレインは少し気分を害する。
しかしヴィンセントはそんなレインの反応には気付かない様子で、
「百人力、いや千人力。その勢いは、一人で戦略図を塗り替えてしまうほどだったとか」
「人殺しに名誉もクソもないだろうよ」
「そんなまさか。祖国の為に命を賭して戦い、しかも功績を積み上げるというのはまさしく英雄が所業。最高の栄誉に他なりますまい」
ヴィンセントはレインの否定の言葉を歯牙にもかけずに、真面目な顔で断言した。
レインは内心で驚く。そして思う。
この男、一見腰が低いように見えて我が強い。食えない男だ。
自分では表情に出していないつもりだったが、ヴィンセントはそんなレインの心を見透かしたかのように薄く笑った。
「そんな英雄様にお頼みしたいことがございまして」
「俺を英雄扱いするのをやめたら考えてやる」
「失礼。――既にお聞き及びかと存じますが、エージェ子爵のご子息であられるルナン様が、とある人物によって拉致されたのです」
ヴィンセントは重々しく言って、ただでさえ切れ長な目を厳しく細めた。
「そこまではアルヴァから聞いた。そのとある人物とやらが偉大なる公爵様だってこともな」
レインはわざとらしく言いながら、チーズを口に投げ込んでコップの麦酒を一気に煽った。
「――一体誰だ?」
「リゴール公爵であります」
リゴール公バルマン。
聖王リンドブルムの伯父であり、首都バーナムの東北に位置するリゴールの領主である。
貴族では珍しく商売に精を出す変わり者で、聖王家を凌いで国一番の資産家だと言われている。
また、圧倒的過激派としても知られる。
シブリアとの戦争も、十年にも渡るいざこざに業を煮やしたリゴール公が、自分の所有する騎士団と私財を優先して投じることを約束し国王の背中を押したという話だ。
「厄介な相手だな。しかし何故、リゴール公が少年を攫う?」
「それは皆目見当も」
「少年に恋でもしたか?」
レインは珍しく冗談を言ったのだが、ヴィンセントの表情はぴくりとも動かなかった。
居た堪れなくなって、場繋ぎにチーズの小皿を差し出してみる。
「――食うか?」
「いただきます」
あ、食うのか、とレインは思う。断られると思い込んでいた。
ヴィンセントは両手でチーズのスライスを持つと、小動物のようにちびちびと齧りだした。仏頂面で。
不気味な絵面だった。
「うまいか?」
「ええ、勿論。ただでさえ美味なミルクに一手間を加えたこの食品。まずいはずがあろうございません」
きりっとした顔でヴィンセントは断言すると、再びチーズを齧りだす。
案外面白い男かもしれない。
レインはヴィンセントが食い終わるのを待ってから、再び話を切り出した。
「で、依頼の方は?」
「はい。内容はルナン様の救出。場所はバーナム市内にあるリゴール公爵の本邸」
「今も確かにそこにいるんだろうな?」
念押しする。レインとしても危ない橋だ。後から間違いでしたでは済まされない。
「先程、従者からの情報筋で確認致しました。間違いありません。夜間の内に移送されていなければ、ですが」
誘拐の目的が分からない以上、ルナン少年の扱いが今後どうなるかは予測できない。居場所と生存が知れている内に奪還するのがもっともスマートな方法だろう。
「そこまで分かってるのなら話は早い」
「引き受けてくださいますか」
ヴィンセントの目に期待の色が籠り、若干姿勢が前に乗り出す。
レインは冷ややかに目を細めて、
「報酬は?」
「――これは失礼。前金で金貨五十。成功の暁には更に金貨百五十でいかがでしょう」
「大盤振る舞いだな」
レインはその金額に思わず呆れる。この仕事の報酬だけで、向こう五年間は働かなくても暮らしていける。
「跡取り様の命が掛かっておりますので」
「引き渡しは?」
「再び、ここで。もしくは、そちらのお店の周辺に人を配置させておきますのでそちらの方でも」
これで聞くべきことは聞いた。そう思う。
危険な任務だ。が、少年の安否が掛かっていることだし、リゴール公がそのようなことをする理由も気になった。
レインは重々しく頷いた。
「了解した。その依頼、受けるとしよう」
ヴィンセントは薄く笑って、深々と頭を下げた。




