第三話 - 勉強嫌いに捧ぐモンスター学 / 少女、初体験
会議室は長年放置されていたせいで、かなり埃っぽかった。換気の為にすべての窓を開け放つと、清涼感のある気持ちの良い風が吹き込んで来る。
レインはチョークを持って、横幅三メートルの黒板の前に立つ。
目の前には二つの長机。真正面の席にミラナとスララが行儀良く座っている。筆記用具の類はない。そこまで難しい話をする気はなかった。
「これから、寄生魔についての講義を始める」
「だぁりん、学校の先生みたいスラ!」
「まぁ、真似事だな」
指で挟んだチョークを睨む。人にものを教えた経験なんて皆無だ。不安はある。
「ねぇ、おっさん」
「おっさんはやめろ」
レインはやたらと低い位置にあるミラナの顔を睨み付け――そういえば、まだ名前を教えていなかったことを思い出す。
「じゃあ、先生」
「おう。なんだ」
「講義って座学なの? あたし、早くドラゴンと合体したいんだけど」
甘えた考えだった。口を尖らせるミラナに、レインはびしりとチョークを突き付ける。
そして冷たく笑う。
「お前――死ぬぞ?」
「え? ……え?」
途端にミラナの顔が怯えたものになる。レインはそれを見て「よし」と頷く。
「では、まずは寄生魔誕生の歴史から……」
「ちょっと! なんで死ぬの!? なんで死ぬのさ!?」
面倒なやつだ。話が全然進まないじゃないか。
「制御できない過ぎたる力は身を滅ぼすってことだ。まぁ、まずは知識から付けろ」
レインは振り返って黒板に文字を書き出そうとしてから、どこから教えようか迷う。
「お前ら、勇者ベルライトについて知ってるか?」
「知らない「スラ」」
「……大魔道士デスピアは?」
「知らない「スラ」」
思わず頭をかき毟る。前途多難だった。
レインはすぐさま妥協して、
「分かった。そこらへんの面倒なところはすべて省く。本当に最低限のことしか教えねェから、気合で覚えろ」
「「はーい」」
黒板にチョークを叩き付けるようにして文字を刻む。
『寄生魔の誕生』
「年号……は良いか。遥か昔、まだモンスターが人間の数ほども存在した頃。すべてのモンスターは魔皇帝ゼルギウスによって束ねられていた」
レインのチョークが魔皇帝の絵を黒板に描き出す。
「……ヒトデ?」
人型のつもりである。
「お腹に目があるスラ!」
ベルトのつもりである。
「頭の形がチューリップなんだけど……」
悪魔の角のつもりである。
得体のしれないモンスターになってしまったが、まぁ重要なところでもないので飛ばして次に移る。
「人間達が魔皇帝を倒すと、天界より創世神ラマノスが降臨する。創世神はそれ以上の争いを生まないよう、モンスターを無害な弱い生物に作り替えた」
魔皇帝の横に、創世神の絵を描き加える。
「ヒトデが二匹目スラ!」
人型のつもりである。
「腕が……伸びた?」
羽のつもりである。
「スララが! 頭の上にスララがいるスラ~!」
「いや、タコのお化けじゃないの?」
長い髪の毛、のつもりで……。
レインは長い溜息をつく。そして呆れた表情を作り、
「お前ら、真面目に授業を受ける気はないのか?」
「あんたのせいでしょ! あんたの変な絵のせいで、全然話が頭に入ってこないでしょうが!」
がぁ~、と野獣のように吼え立てるミラナを両手で制する。困ったものだ。
「だぁりんの絵は難し過ぎるスラ~」
申し訳なさそうにスララも訴えてくる。どうやらとことん不評なようだった。
「仕方がない。絵で表すのはやめにしよう」
「最初からそうしなさいよ」
「なるべく分かり易くしようと思ったんだが」
「混乱の極みだったわよ」
「えー、どこまで話したか……そう、そうして弱くなったモンスターを人々は保護し始めた。これが寄生魔と宿主の関係だ」
黒板に図を書く。
寄生魔 ←← 宿主
「創世神の目論見通り、このペットと飼い主のような関係は長らく続いた。だが、やがて人々はその禁を破り、自らの体に失われたモンスターの力を憑依・覚醒させる技術を確立する」
図の矢印を書き換える。
寄生魔 ←←→→宿主
「この技術のことを――」
説明しながら、聴衆の方へと振り返る。
スララは楽しそうな顔でチョークを握るレインの方を見ている。
ミラナは……机に突っ伏して死んでいる。完全に熟睡している。
昨晩ミラナがナイフを投げた時のように、レインは全身を使ってチョークを投擲した。
「あだーっ!?」
「寝てんじゃねェよ。ドラゴンの宿主になるんだろ?」
「うぅ……出てくる言葉が難しくて、すっごく眠くなるのよ……」
むぅ、とレインは悩む。ただの言い訳かもしれないが、なにせ初めての授業である。とても分かり易いとは言えないだろう。
「分かった。ここからはバカでもスララでも分かるレベルで解説してやろう」
「だぁりんが、スララのことを想ってくれてるスラ!」
「あんた、バカにされてるわよそれ……」
スララが疑問顔で首を傾げる。分かっていない内に、さっさと話を進めてしまおう。
「今のモンスターは弱い。大抵は人間が傍にいないと生きられない。だが、人間と合体することで強かった時代の能力を取り戻すことができる」
こくこくと頷くミラナとスララ。よし、伝わっているようだ。
「その合体の技術を『ポゼッション』と言う。ポゼッションの存在が分かってからは、それまでただのペットだったモンスターは貴重な資産として大切にされましたとさ」
二人の表情を窺う。話の続きをじっと待っている。
困る。
「――めでたしめでたし」
「……適当に締め括らないでよ」
「まぁ、これで話は終わりだ。今後はポゼッションについて重点的に学ぶことになる。分かったか?」
ミラナはこっくりと頷く。
「ええ。それがお金儲けの秘策ってわけね」
「スララもだぁりんに大事にされるスラ~!」
本当に分かっているのだろうか、こいつらは。
「まぁ、今日はこのへんで良いだろ」
「もう終わり?」
「おう。お前の部屋の準備とかもあるしな」
レインはぼりぼりと頭をかく。他に何か必要なことはあるだろうか。食い扶持も増えるし、着替えもいるし……うむ。
「お前ら、今すぐ街行って飯と服買って来い。ついでに他にいりそうなもんも」
「お金は?」
「無論渡す。お前を逆さに振っても銅貨の一枚も出やしないだろうが」
「じゃあ、出世払いね!」
ミラナの主張をレインは鼻で笑い飛ばす。せいぜい偉くなってくれれば良いが。
「ミラナとお買い物~。楽しみスラ~」
ぽよぽよと喜ぶスララ。提案して良かったとレインは思う。
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背中が重い。
大通りから外れた細い裏路地を、ミラナは憮然な顔をして歩いている。
「お買い物~♪ お買い物~♪」
耳元で楽しそうなスララの声がする。スララの体はミラナが背負った皮袋にすっぽりと収まっている。
多分二十キロはあると思う。ミラナの体重の丁度半分ほど。たまらない重労働だ。
勿論ミラナは不本意だったが、文句は言えない。ルンルン気分で皮袋を持ち出して来たスララに対して先生はちゃんと「ミラナじゃ無理だ」と止めてくれたのだ。
そこで「いつもだぁりんはしてくれるのに……」と凹むスララに、「できるわよ! さぁ、いつも通りに準備しなさい!」と啖呵を切ってしまったのは紛れもない自分だった。
ミラナは人に侮られることが嫌いだ。そのことで、今日のように面倒を背負い込むこともある。
「あんたっていつも楽しそうで良いわよね」
「今日はミラナと一緒だから、すっごく楽しいスラ!」
「そ、そう……」
真正面からの好意を受けて少し戸惑う。
スララのように表裏のない性格は、今まで出会ったことないタイプだ。貧民街の子供達は歳が幼くても、大抵どこかスレてしまっている。
「だぁりんとお出掛けも楽しいけど~、ミラナとお出掛けもすっごく嬉しいスラ。だぁりん以外の人とお出掛け、久し振りスラ」
「お店の人と行かないの?」
まだ、先生とスララ以外の顔をミラナは知らないけれど。あれだけ大きな店を構えているのだから、他にも人がいるはずだった。
が、
「……今、おうちにはスララとだぁりんと、ローザしかいないスラ」
初めて、寂しそうなスララの声を聞いた。
ミラナは少しだけ困って、
「ローザって?」
「ドラゴン。サンドラの寄生魔だったスラ……二年前まで」
寄生魔だった。
今は違う。知っている。その話はミラナも耳にしている。最強のドラゴンの宿主は二年前に死んでいる。
「ミラナ」
「うん?」
「スララは、クロフォードのお店を大きくしたいスラ」
「……十分大きいじゃない?」
「違うスラ! 昔はもっといっぱい人がいて、もっといっぱいモンスターがいたスラ!」
スララはうにうにと暴れて吼える。あれだけ大きな建物に一人と二匹しかいないのはおかしいとはミラナも思っていた。
「昔はだぁりんも笑顔とお花畑が似合う好青年だったスラ……」
「……うっそ、似合わねえ」
あの殺人鬼のような風貌で笑顔を向けられたら、大抵の婦女子は竦み上がるに違いない。お花畑というのも実は『鮮血の花が咲く戦場』とかの隠語なんじゃないだろうか。
「サンドラが死んで、仲間がいなくなって、だぁりんはいつも寂しい顔をしているスラ……」
「まぁ、確かにいつも世を儚んでるようなツラはしてるわね……」
当人が聞いたらさぞ落ち込むような話だと思う。多分、三日間位寝込むと思う。
「でも、ミラナが来たら前よりちょっとだけ明るくなったスラ!」
「そ、そう?」
またこの直球だ。しかも今度はミラナの首に腕を回して、嬉しそうに頬擦りをしてくる。
冷たくて、くすぐったい。
スララがミラナのことを好いている理由は『だぁりんの為』なのかもしれないけど、でも、この感覚は嫌なものじゃない。
「着いたスラ!」
言われて、はっと顔を上げる。
酒場か賭博場しかなさそうな汚い路地の突き当たりに、その店はぽつんと建っていた。
ドアの横に白塗りの看板がある。
『服飾雑貨 レイトン』
からんからんとドアベルの音を鳴らして、ミラナは店の中に侵入した。
右を見れば、かかしが漆黒の礼服を上下セットで着込んで立っている。
左を見れば、茶色のレザーコートがハンガーにかかって並んでいる。
「……ここ?」
ぱっと見、シニアの男性が客層のお店である。
怪訝な顔で立ち尽くしていると、展示棚の陰から大きな影が現れた。
「あら、可愛いお客さんだ」
若い男性の店員だった。茶色の癖っ毛、人懐こい笑み。二十は超えていると思うが、妙に若く見える。ひょっとしたら十代なのかもしれない。
男性は手を揉み合わせながらミラナの方に近付いて来て、
「女の子の服は裏手に回ってくれるかな? 奥さんがやってる店があるんだ。あ、俺マリウス」
「え、えーと……」
「それとも男物を御所望かい? 今着てるのも男物みたいだしね。大分くたびれているみたいだけど、はは、そんだけ着てくれれば服も本望だよ」
早口で捲し立てられて、思わず口を噤んでしまう。
するとミラナの肩の裏からスララが乗り出して、
「マリウス!」
「うおっ、スララじゃん。びっくりするわー。なになに。最愛のだぁりんはどうしたの?」
マリウスは訊ねながら、スララの頭をわしわしと撫でてやる。
「うにゃー……今日は代わりにミラナがいるスラ!」
「へぇ、ミラナちゃんって言うんだ。可愛いね。レインさんの彼女?」
何を言い出すんだ、こいつは。
顔は赤くならなかったと思う。
「違うスラ~! だぁりんの彼女はスララスラ~!」
「おお、おお、知ってる知ってる。冗談冗談」
背中で暴れるスララを、マリウスはにへらとした笑顔を浮かべて宥める。そして撫で回す。スララはそれだけで「はふ~」とご満悦だった。
完全に飼い慣らされている。
話の矛先はミラナに向いて、
「で、ミラナちゃん服買うの? 男物で良いの?」
「ええ、動きやすい方が良いから……」
「お待ちなさいっ!!」
突然、店の奥から甲高い女性の声がした。
また面倒なことになる気がした。
「なによー、ジュリー。お客様だぞー」
颯爽と現れたのは、豊かな黒髪に黒いドレスを着込んだ女性だった。多分、ミラナとそんなに歳は離れていないと思う。
「可愛らしい少女には可愛らしい服を着させるべきです。当然のことです」
「そんなこと言っても、本人の意見だしなー。あ、これ、奥さんのジュリー」
「ど、どうも……」
「ジュリー! ジュリー!」
「初めまして、ミラナさん。お久し振り、スララさん」
スカートの端を摘まみながら、優雅に礼をするジュリー。
多分、変な人だと思う。
「ミラナさんにご理解頂きたいのですが」
「な、なに?」
「女性用の衣服だからと言って必ずしも動きを阻害するというわけではございません。見た目の美しさだけではなく、機能美を兼ね備えた商品も当店には数多くございます」
「は、はあ……」
「というわけで、是非に、今すぐに、当店へ。大丈夫です、すぐ裏手にあります。試着もできます。きっと気に入って頂けるはずです」
目をぎらぎたと輝かせたジュリーはミラナの腕をがっと掴むと、
「いえ、いっそ家の中を通りましょう。そちらの方が早いですから。さぁさ、ミラナさん」
「ちょっ、待っ……あっ、なんで降りるのよスララ!」
「スララは待ってる間、マリウスと遊ぶスラ~!」
「あっ、あっ、白状者ぉッッ!!」
怨嗟の叫び虚しく、ミラナは店の奥へと攫われてしまった。
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「つ、疲れた……」
ミラナは裏路地を抜けながら、がっくりと肩を落とす。
着ている服はピンクのシフォンカーディガンに白のアンダーシャツ、ズボンは黒のショートパンツに変わっている。体は随分と軽くなって、足がすーすーするのがなんとも落ち着かなかった。
背中の皮袋の中には似たような『女の子の服』がどっさりと詰まっている。あれよあれよと言う間に下着から靴まで買わされてしまった。店員の勢いに負けてしまったのだ。
ポケットから残金を取り出して確認する。
十枚あったはずの金貨が、今は六枚。
「四枚も使っちゃった……」
金貨四枚ってことは銀貨が四十枚ってことで、銅貨が千六百枚ってことである。
別に服なんて着られればなんでも良かったのに。さっきの一瞬だけで、ミラナは今までの人生すべての浪費よりも遥かに多い金額を使ってしまっていた。
「だぁりんは全部使って良いって言ってたスラ!」
「先生が良くても、あたしの心がねぇ……」
まさに住む世界が違った。その日の食い扶持の為に命がけで戦ってきた今までの生活が、ひどくバカらしいものに感じられた。
別に金持ちを妬む気持ちはないし、自分の過去を呪おうとも思わない。むしろ、その逆だ。今までと違う世界に飛び込んだ自分を褒めてやりたい。
などと考えていたら、スララにお金を奪われた。
「ちょ、ちょっと!」
「両替屋さんに行くスラ!」
「分かったから、ちょっと、絶対落とさないでよ!」
ちょこちょこと駆けて行くスララの小さな背中を、ミラナは慌てて追いかける。
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市場で買い物をしていて、分かったことが一つ。
スララはモテる。
その表現は的確ではないのかもしれない。が、ミラナにはそう感じられた。
寄る店寄る店、どこの店員もスララのことを知っていて、安くしてくれたり商品をおまけしてくれたりする。そしてサービス料と言わんばかりにスララの頭を撫で回す。
歩いていると良く声を掛けられる。スララの知り合いのようだったり、そうでないようだったりする。老若男女がスララにハグや握手を求めてくる。
そして、またかと思ってミラナが呆れ顔をしていると、「お嬢ちゃんもしたいのかい?」などと声を掛けられる。
どっと疲れた。
「おいしい? おいしい?」
「あー……うまいよ……」
街路樹の木陰に避難して、ミラナは串付き肉を齧っている。スララにオススメされたものだ。
甘辛い味付けの焼肉はさぞうまいはずなのに、疲れでさっぱり分からない。くちゃくちゃと革靴の底を食べているような気分だった。
「あんた、人気者ね……」
「モンスターはあんまりいないから珍しがられるスラ」
「それだけじゃないと思うけどね」
「スラ?」
スララは理解できない様子で首を傾げる。
いくらモンスターが珍しいと言っても、あの可愛がられ様は異常だった。やっぱり、スララは街の人達から愛されているのだ。
その気持ちはまぁ、ミラナにも分からなくはない。
と、ミラナ達の前に小さな足音が駆け込んできた。
「すっ……スララちゃんっ!!」
叫びながら現れたのは、ミラナよりも五歳は若そうな少年だった。全力で走ってきたのだろう。顔は真っ赤で、苦しそうに肩で大きく息をしている。
「スラ~? どうしたの、クリフ」
「お兄ちゃんがっ! お兄ちゃんが黒蛇団に絡まれてるんだ!」
「黒蛇団?」
スララが首を傾げる。
ミラナはその名前を聞いたことがあった。
「ここらへんを縄張りにしてるごろつき共よ。かなりタチが悪いって噂の」
クリフは目を瞬かせて、
「あれ? お姉ちゃん誰? レインおじちゃんは?」
「新しい仲間のミラナスラ。だぁりんはおうちでお留守番してるスラ」
「そ、そんなぁ……」
クリフは涙目で肩を落とす。そんな素直な反応が、ミラナを苛つかせた。
「あんた、お兄ちゃんを助けて欲しいの?」
「うん。で、でも……」
「良いわ。このお姉さんに任せなさい」
どん、と胸を叩く。それぐらいの仕事なら、自分にだってできると思う。
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「ここだよ」
クリフに案内された裏路地。ミラナはそっと建物の陰から様子を覗き見る。
筋肉質のガラの悪い男が三人、人が良さそうな細い男を囲んでいる。囲まれている男はふらふらで、顔はぼこぼこの鼻血まみれだ。
「スッ! ……」
叫びだそうとしたスララの口を塞ぐ。
そのままミラナは小声で、
「やみくもに出て行っても勝てないわ」
「……ミラナでも?」
そのスララの言葉は、ちょっと嬉しい。昨夜の戦いでのミラナの実力を認めてくれているということだ。
が、今回はダメなのだ。そのことは素直に認めないといけない。
「さすがに武器もないしね。ナイフの一本でもあればやっつけてやったんだけど」
「スラ~……じゃあ、じゃあ……」
スララは困った顔でクリフの顔を見る。クリフは唇を引き結び、泣くのを堪えている。
八方ふさがり……というわけではない。
「あんた、寄生魔でしょ」
「う、うん……」
「ポゼッション、するわよ」
びくっ、とスララの体が跳ねる。
嫌がっている。
「だぁりんがまだポゼッションは危ないからダメって言ってたスラ~……」
「じゃあ、ここで彼を見捨てる?」
「うぅ~……」
卑怯な提案だと思う。が、クリフと約束した時点でミラナは既にその気だった。
ここで上手くできることを証明できれば、先生も早くドラゴンとのポゼッションを許可してくれるかもしれない。
「先生なら、どうすると思う?」
「だぁりんはぁ~……『人の道に外れたことはしない』って……」
「じゃあ、決まりね」
迷いに揺れるスララの紫水晶の瞳を、ずいと睨み付ける。うむも言わせない。
「どうやったら良いの?」
「『スライム・ポゼッション』って言えば、それだけスラ」
「よし、行くわよ」
スララの手を強く引いて、ミラナは路地に飛び出した。
「あんたら、待ちなさい!」
ごろつき共の体がびくりと跳ねて、ミラナの方を見る。
そして、胸を撫で下ろす。
「なんだ、メスガキかよ……」
「いや、待て。あいつモンスターじゃねぇか!?」
「寄生魔の宿主だ!!」
途端に色めき立つごろつき共に、ミラナはなんとも優越感を覚える。良い反応だ。
「そうよ! 叩きのめされたくなかったら、今すぐ尻尾を巻いて逃げなさい!」
「このクソアマ……」
「どうする?」
「スライムだろ? 三人いれば勝てるんじゃねえか?」
それは侮りだった。ごろつき共は男を放り捨て、ミラナに向かって拳を構え始める。
ごろつき共の無知さをミラナは鼻で笑う。
「スライム・ポゼッション!!」
ミラナの呪句。隣に立つスララの体が青い光の粒になって弾けた。
そしてそのままミラナの体に溶け込んでくる。
ぞわぞわとむず痒い感覚。
青色の光は裏路地を真っ青に染め上げる。
ミラナの体から一瞬白い光が迸り、変身は完了した。
視界が真っ青に染まっている。
「アアアアァァァッッッ――!!」
ミラナはモンスターのように雄叫びを上げた。体中の血管の中をぐちゅぐちゅに溶けた毛虫が這いまわっている。脳は酸に浸かってしゅわしゅわと泡を吹いている。
こんなの、自分の体じゃない。
歯らしきものを噛み締めながら、煉瓦造りの壁を殴り付けた。千切れ飛んだスライムの腕が宙を舞った。自分の体じゃないから、他人事のようにそれを見ていた。
(ミラナ、しっかりするスラ! 気をしっかり持って!!)
溶けかけた脳からスララの声が響く。少しだけ冷静になる。
えっと――そうだ。あいつらを倒すんだ。
ぎょろり、とスライムの体になったミラナがごろつき共の方を見る。
「ひぃっ……」
「怯むな! 寄生魔の宿主だろうが、ただのメスガキだ!」
「おらぁ、いくぞ!」
最初に飛び掛かってきたごろつきは、大振りにミラナに殴りかかって来た。
ミラナは無事な方の左腕でガードする。べちゃっ、と嫌な音がして弾け飛んだ。
手首から先がなくなった左腕を茫然として見る。
「あ、れ……」
違う。違うの。やりたかったことと違う。
先生みたいに、
(ミラナァァァッッッ――!!)
今度は胴体を蹴飛ばされた。
ちょうどベルトのところで体が千切れた。ぼすっ、と軽くなった上半身が地面に落ちた。
痛くなかった。
(ミラナ、動いて!! 腕を伸ばして、足を拾うスラ!! 早くっ!!)
でも、動けないの。
動けないなら、戻ってしまっても良いかな。吐き気がして、凄く気持ち悪い。戻る方法は、ええと――、
「戻るなっ! そのまま寝ていろっ!!」
突如聞こえてきた叫びに、ミラナはつい従った。何を考える力も残っていなかった。
生気を失った紫水晶の瞳を必死に動かして、ミラナは声の主を確認する。
知らない人。金色の長髪を蓄えた美男子だった。先生よりも体の線は細いが、同じぐらいに背は高い。
男が風のような速さでごろつき共に殴りかかったところで、ミラナの意識は急に闇の中に落ちた。