第96話
午後になってもセイリオスの噂が頭から離れない。
今度は帝国を狙っているのか。性懲りもなく、日の当たらない場所で刃を研ぎ澄ましながら。
エレオノーラとイザードが狙われて、罪のないたくさんの人たちの命が失われたんだ。それなのに、あんなひどいことをまだ続けようというのかっ。
狂ってる。フィオスもグレンフェルも、セイリオスの連中は頭がいかれてるぜ。
「くそがっ」
机を、だん! と打ち付ける。手の腹にじんと痛みがこみ上げてくる。
あいつらの暴挙を許すことはできない。イーファさんのような犠牲者をこれ以上出してはいけない。
だけど、俺に何ができるというんだっ。
部屋のまわりを見回す。大理石のような白壁は今日も鏡のような表面を俺に見せつけている。
部屋の隅には、俺が来る前から置かれていた化粧箪笥や金色の豪奢な椅子がたたずんでいる。
部屋の真ん中に置いているテーブルは、きちんと片づけられている。床や絨毯にもごみがない。
アビーさんが毎日丁寧に掃除してくれているんだ。アビーさん、ありがとうな。
フィオスやグレンフェルの噂を聞きつけたところで、俺は何もできない。陛下やセラフィに無断で宮殿を出るわけにはいかないし、セイリオスの連中を成敗してくるぜ! とも言えない。
言ったところできっと、シャロに「貴様はおとなしくセラフィーナ様をお守りしろ」と冷たくあしらわれるのが落ちだ。
セイリオスの暴挙を止めるために、やりたくもない剣の稽古を三ヶ月以上も前から続けているのに、何もできねえのかよっ!
何か、いい方法はないのか。あいつらを止めるいい方法が。
神使術の術法書を机に置く。天井を見上げて真剣に考える。考えたところで方法なんて思いつくはずがないけれど。
「だめだ」
十分くらい粘ってみたけど、案の定、良案は何も出ない。
こんなに沈んだ気持ちで刻印術の勉強なんてできない。気分転換しよう。
扉を開けて内廷の回廊へ出る。心なしか今日は宮殿が騒がしい。
セイリオスのことで頭がいっぱいになっているせいで、帝国のことをまったく考えていなかった。
帝国ってどんな国なんだろう。
こっちの世界に来たときに、セラフィかシャロから触りだけ聞かせてもらった気がする。けど、忘れたな。
あっちのソーシャルゲームの影響で、帝国っていいイメージがないんだよな。世界征服を無駄に公言したり、裏で魔王と取引をしているような感じというか。
こっちの世界の帝国も安易でチープなイメージなのかな――。
「お前はあっちを探せ!」
「はっ」
耳を劈く怒鳴り声に俺は慌てて顔を上げた。
王宮の官吏や禁衛師士の人たちが外廷の廊下を走り回っている。腰に剣を差しながら。
なんだなんだ? 宮殿のどこかで火事でも起きたのか?
訊ねてみたいけど、忙しそうにしている人たちに声なんてかけられねえよ。引き留めたら末代まで恨まれそうだし。
廊下の隅で聞き耳を立てていよう。
「やつはアストラル系の幻妖だっ。姿を消すから気を付けろ!」
アストラル系の幻妖? やつは姿を消す?
「憑依されたら大変だ! どこから襲われても対処できるようにしとけよっ」
「わかってるよ!」
憑依されたら大変だ?
憑依って、今は亡きプレヴラの得意技だったよな。あいつはまだ地下牢で生きてるけど。
プレヴラ二号でもひょっこりあらわれたのか? それなら、みなさんが慌てているのはうなずけるなあ。
一階の正面ロビーのそばでシャロの姿を見つけた。あいつは今日も偉そうに腕組みして、禁衛師士のおっさんと真剣に話し込んでいる。
あいつに訊ねたらいっぱい文句を言われそうだけど、他のよく知らない人よりはましか。
「シャロ」
背中を向けていたシャロが身体をわずかに向けた。
「なんだ、貴様か」
「なあ。何かあったのか?」
質問の台詞を考えるのが面倒なので率直に聞いてみる。シャロの整えられた眉尻がぴくりと動いた。
そして視線をわずかに逸らして、
「プレヴラがまた脱走した」
俺に冷たく言い返した――って!
「マ、マジかよ!?」
あいつにまた逃げられたのか!?
やっ、やべえじゃんか。あいつ、面倒な能力をいろいろ持ってる上に、前にあいつを捕まえた俺たちを恨んでるんだぞ。
俺がこっちの世界に来たばっかりのときに、あいつが脱走して大騒ぎになったんだっ。
街まで逃げて幻妖を呼ぶわ、どこかのおっさんに憑依して面倒なことになるわで大変だったんだ。
あいつにばったり遭遇したら、「くっくっく。やっと見つけたぜえ、ああん!?」とか陰湿に言われて、執拗に追い掛け回される可能性だって否て――。
背中にぞくりと寒気を感じる! とっさに振り返るが、そこにプレヴラらしき姿はない。
「何をしてるんだ貴様は」
「う、うるせえっ」
嫌な気配をちょっと感じただけなんだ。心の底から呆れるな。
「ど、どうするんだよ!? あいつがまた街に降りたら大騒ぎになるんだぞっ。それなのに――」
「だから、われらが手分けして探しているのだろう。貴様は黙ってろ!」
けっ。ああ言えばこう言うかよ。こいつがむかつく野郎なのは相変わらずだぜ。
「っていうか、あいつが前に脱走したときに、闇のなんとかっていうアイテムで封印したんだろ? それなのに――」
「闇のなんとかではなくて、闇の封緘だ。それに、あれはアイテムではない。術法器具だっ」
今は細かいことにかまってる場合じゃないだろっ。
「その闇の封緘っつう道具であいつを封じ込めてたんだろ。それなのに、どうしてあいつに脱走されちまうんだよっ。おかしいじゃんか」
「詳しい経緯はわたしも知らん。だれかがまた性懲りもなく闇の封緘を開けたのだろう」
「はあ? なんだよそれっ。前とおんなじミスをまたやらかしたっていうのかよ。ここの連中は呑気だ――」
「ええい、だまれっ! そんなこと、貴様に言われなくてもわかっているわっ。くだらん能弁を垂れてる暇があったら貴様も探せ!」
「んだとっ!」
シャロと取っ組み合いの喧嘩をするところで禁衛師士のおっさんに割って入られた。
こいつの減らず口は何回聞いても頭にくるが、おっさんの言う通り、今は喧嘩している場合ではない。
「まあ、とにかくっ」
シャロが怒気をあらわに言い放つ。
「宮廷の一大事だ。貴様も遊んでないでプレヴラを探せっ。わかったな!」
「うっせえ。わあったよ!」
言われなくてもやってやらあ! 俺がいの一番に見つけて、お前の吠え面を拝んでやるぜっ。
宮殿の外へ向かうシャロに背中を向けて、宮殿の外廷を捜索だ。プレヴラの探し方なんてわからないから、廊下を隅から隈なく探す。
あいつは陰湿な性格からして暗い場所が好きそうだ。外廷の使われていない部屋の扉を片っ端から開けてみるが、全然見つからない。
そもそも宮殿は広すぎるから、官吏の人たちと手分けしても探しきれないぜ。
刻印術であいつを探し出すことはできないだろうか。聖なる力を放つ術で、プレヴラみたいな霊体をあぶり出したり、とか。
刻印術のあの分厚い術法書になら、そういう術がひとつくらいは載っているかもしれない。
だけど術法書はセラフィがいないと解読できないぞ。あいつは今頃、後宮の部屋で勉強させられている最中だから、呼び出すこともできないし。
宮殿の中を地道に探すしかないのか。
ひたすら長い宮殿の廊下を見て、立つ気力を失う。ふくらはぎに力を込めて、プレヴラの捜索を再開だっ。
だが、俺のそんながんばりも虚しく、プレヴラを見つけることはできなかった。途中でアビーさんやメイドの方々と合流したのに。