第95話
昨晩は柄にもなくセラフィを慰めるという暴挙に及んでしまったが、俺はそれが軽はずみな行動であったことをたった数時間後に思い知らされることになった。
「アンドゥ早く起きて!」
早朝の陽がまだ昇りきっていない時刻に、耳を劈く声が響いて、鈍重な衝撃が俺の下腹部になんの断りもなく走ったのだ。
俺は理不尽かつ凄絶なダメージを負って飛び起きた。俺の腹に乗りかかっているのは当然ながらセラフィだ。
「こんな時間に何をする」
「なにって、遊びに来たんでしょ」
いや俺は、襲来した理由じゃなくて時間帯のことを問うているのだが。
「だってアンドゥ言ったでしょ。みんなが心配するから、部屋に篭ってるのはよくないって。だから、早く起きてっ」
だからってこんな朝早くに襲来するのは常識を逸脱しすぎているだろっ。
この時間帯は、文学的に言うと黎明だか暁などと呼ばれる表現が微妙に難しい時間帯でもあるんだぞ。
しかしそんな高度な理由で説得してもこいつが聞き入れるはずもなく、遊ぶのを諦めて帰る気配もないので、俺は観念してため息をついた。
クローゼットから適当な服を見繕って着替える。あと四時間は熟睡しているはずだから、眠くて仕方がない。
「それで、どこに遊びに行くんだ?」
「えっ、うーんとねえ。どこにしよっか」
大まかな計画も立てないで俺の眠りを妨げやがったのかよ。こいつがこの国の王女じゃなかったら、今ごろ教科書の角で殴り倒しているところだ。
お外に出ようよと、セラフィに腕を引っ張られながらせがまれたので、守衛の人たちの目を忍んでアリス宮殿から抜け出す。夜明け前の外は風が吹いて肌寒い。
「アビーも連れてくればよかったねっ」
俺のとなりでぶんぶんと手を振りながら、セラフィが話しかけてくる。
「いや、こんな朝早くに襲来したら迷惑だろ」
「ええっ、そうかなー。朝早く起きると、気分がすっきりするよー?」
そうか? 朝の九時をすぎても起きない俺からすれば、八時に起きることすら難題だぞ。
「アンドゥも早起きすればいいのに。そうしたら、きっとシャロが褒めてくれるよ?」
「あいつは規則正しいのが好きそうだからな」
予定がなければ一日中ぐうたらしていたい俺にとって、規則正しい生活は天敵だ。故にシャロと俺の因縁は深いものになっているのだろうな。
俺は「ふ」と白い息を吐いてセラフィを見やった。
「セラフィさんよ。規則正しい生活なんてつづけてたら肩が凝るぜ。だから、たまには気を抜いて、昼までぐっすり眠ると新しい世界が見れるぜ」
「ええっ、そうなの? シャロは、そういうのはよくないって言ってたけど」
宮殿の外庭を抜けてアリスの街へ向かう。宮殿のある島から対岸に向かって一本の吊り橋がかかっている。
切り立った崖の先には夜明けの空が広がっている。彼方に上がった太陽が暗黒の空を眩い光で照らしている。
「空、きれいだね」
セラフィが吊り橋の手すりをつかむ。身を少し乗り出して日の光を眺める。
「あんまり身体を突き出すなよ。落ちたら危ないからな」
「落ちないってば。アンドゥもやってみなよっ」
「やらねえよ。そんなくだらねえこと」
俺は標準の日本人よろしくの微妙な高所恐怖症だ。吊り橋を渡るのもできれば避けたいのに、身を乗り出すことなんて絶対にできるか。
橋を渡って対岸の島を突き進んでいくと街が姿を見せてきた。明け方なのでどの家屋も扉が閉まっているが。
「どこのお店もやってないね」
「そうだな」
あっちの世界だったらコンビニが営業しているから、雑誌の立ち読みでもして時間をつぶせるけどな。
こちらの世界は中世ヨーロッパくらいの文明水準だから、コンビニのようなお店は存在しない。
「あーあ。西ルベラマイマイと七色アシナガグモの地獄焼きが食べたかったのにー」
「そんなもん食うな」
ゲテモノ料理を食うために俺を誘ったのかよ。こんな朝っぱらに。
しかも西ルベラマイマイって、ネーミングからしてナメクジの料理だよな。そんなもんはたとえ世界中の食料がなくなっても食わないぞ。アシナガグモだって同様だっ。
「店が開いてたって、ゲテモノ料理なんて食わねえからな」
「ええっ、アンドゥもいっしょに食べようよ。おいしいよ?」
「おいしくない。さっさと行くぞ」
「ああっ、待ってってばー」
結局することがなかったので、近くの公園で休んだり、刻印術の話なんかをしながら時間をつぶした。
それも小一時間もしないうちに飽きてしまったので、となりで眠たそうにしているセラフィの腕をつかんで、俺は宮殿へ戻ろうとした。
その帰り道。飛竜のタイプの師獣であるウァラクが空から舞い降りてきた。
「やべっ、隠れろ」
「きゃっ!」
セラフィを引っ張って近くの岩陰に隠れる。外出しているのが宮殿の兵士に見つかったら余計な騒ぎになる。
師獣というのは、宮廷の武官である師士が乗る獣だ。師獣は飛行能力があり、平時以外でもつかわれる。
ウァラクは飛竜のタイプで、師獣の中でも獰猛で扱いが難しいとされる獣だ。
手綱をつかんでいるふたりの師士がウァラクから飛び降りる。あのふたりはきっとフィオスの討伐隊の人たちだ。
「なあお前、聞いたか?」
左の背の高い師士が、ぐっと伸びをしながら口を開いた。となりの小太りの男が浅くうなずく。
「ああ。セイリオスの連中が帝国で捕捉されたんだろ?」
なんだって? そんな話は聞いたことがないぞ。
「フィオスとイザードを襲った連中の残党が、今度は帝国を狙ってるっていう噂だけどよ。たしかな目撃情報じゃないんだろ?」
「そうなのか? 俺はてっきり有力な筋からの情報だと思ってたけどよ」
背の高いの師士が歩きつつ顔をしかめる。
「有力かどうかは俺もよくわからんが、噂なんて信じ込まない方がいいだろ。九割くらいはガセなんだからよ」
小太りの方が足を運びながら肩を竦めた。ノッポの方がわかりやすく消沈する。
「そうかあ。火のないところに煙は立たねえって、言うけどなあ」
「噂がたしかだったら、陛下が黙っちゃいないだろ」
聞きながら、小太りの男の考えにすっかり同意してしまった。
フィオスが帝国に現れたという噂はとても気になる。だが信憑性があるかどうかは、よくわからない。微妙なところだ。
確かな情報なのだとしたら、国家の威信をかけて彼らを捕縛せねばならない陛下が指示を出さないわけがない。
しかし情報は正しいけど、陛下の元に行き届いていないのだとしたら、噂の信憑性は変わってくるんじゃないか?
むむっ、これはどちらが正しいんだ? 岩に背をもたれながら考えるが、結論は出そうにない。フィオスに関係する噂なだけに、真相がすごく気になる。
ノッポの方が伸びをしながら空を仰いだ。
「あーあ。セイリオスのやつら、早く見つかってくんねえかな」
「ほんとだ。こんなくだらねえ任務、さっさと終わりにしたいぜ」
そして小太りの男といっしょに、師獣を預ける小屋の方へと消えていった。
フィオスとセイリオスの連中は、帝国に向かっているのだろうか。
あの討伐隊のふたりの話は眉唾ものだったけど、真偽のほどをたしかめたいという気持ちが底から少しずつ沸き起こってくる。
岩陰で身体を縮ませているセラフィを見た。セラフィは岩肌に右手をついて、石のように固まっている。青白い顔には生気が感じられなかった。




