第94話
刻印術は、紙や土などの情報を伝達する媒体に刻印を描き、神使を呼び出す術だ。
刻印術には化生を生成する化生術や、幻妖などの生物を召喚する召喚術がある。また神使の力を行使する基本の術は神使術という。
神使は天空の神イリスの使いとされる存在で、言い換えれば精霊のことだ。
神使は人間の目で見ることができず、炎を司るものや、樹を使うものなど、たくさんの種類がいるらしい。
神使の数は、すなわち神使術のバラエティの膨大さを示し、それぞれの専門分野が確立できるほどの内容量を誇るのだ――。
「だめだ」
俺は神使術の術法書を放り投げてベッドに寝転がった。
この術法書は俺がこちらの世界に呼ばれたときにセラフィから譲り受けたものだ。
シャロに剣術の師事を頼むのと同時に、刻印術の学習に本腰を入れた。しかし、内容が意味不明すぎてまったく捗らない。
まずは術の体系や基礎から勉強しているけど、頭がパンクしていろんな情報が脳の各所から飛び出していきそうだ。
セラフィはこの本を四歳の頃から愛読していたらしいけど、化け物だな。
こんな分厚い参考書、大人でも読みたがらないだろうっていうのに、しかも数日で読破したらしいから、呆れて言葉が思いつかない。
あいつの天性というか特異性の凄まじさを改めて思い知らされる。
またシャロや官吏たちの話に依ると、刻印術の扱いにはセンスが要求されるらしく、できない人間には一生かかってもできないものらしい。
一方でセラフィのように、才能のあるやつは子どもの頃から難なく使えることもあるそうで、専門性の高い学問なのだそうだ。
少し休憩してまた分厚い術法書と向き合ってみるが、右手がページをめくろうとしない。
勉強する気はあるんだが、どうして身体が言うことを聞かないんだろうな。これでは勉強したくてもできないじゃないか。
「今日はもう相当がんばったから、勉強は終わりにしていいな、うん」
一夜漬けで暗記しても三日で忘れるというから、今日の勉強はもう終わりにしよう。
寝る前に裏庭の池でも眺めて気分転換しよう。俺は部屋を出て宮殿の裏庭へと向かった。
イリスの世界の冬は気候的にそれほど寒くない。春や秋より気温は下がるが、薄着でいても凍え死なない程度の寒さだ。
宮殿の最深部にある天穹印が気温を調節しているからだと、シャロがこの前に腕組みしながら語っていたが、天穹印にはそんな機能まで組み込まれてるんだな。
シャロと天穹印のことなんて考えなくていいか。余計に疲れるだけだし。
裏庭にはプールのような広大な池がある。刻印術によって給水して、観賞用の魚を放し飼いにしている優雅な池だ。
池のそばはコンクリートの道や公園が設置されていて、官吏たちの憩いの場として利用されている。
俺も池に沿って設置されたベンチから水面を眺めるのが好きで、思い立つとよく訪れている。
俺がいつも座っている白と黄色の縦縞模様のベンチに人影があった。俺の特等席を無許可で使用しているのは一体だれだ?
その人は背の小さい女の子のようだった。魔女のローブみたいな厚ぼったいコートを着て、フードで顔を隠している。
常識を無視して変な服を着ているあいつは、セラフィっぽい気がするが、人違いである危険性を考慮すると迂闊に名前を呼べないぞ。
少し警戒しながら近づくと、相手が俺に気づいてふり向いた。
「あっ、アンドゥ」
「よう」
やっぱりセラフィだったのか。ほっと息をついてとなりに腰かける。
「寝られないのか?」
「うん。……寝られないっていうほどでもないんだけど」
セラフィがどちらとも言えないような曖昧な返事をする。
以前はお願いしなくても自分から絡んできて、きゃんきゃんと耳に響く声でうざいくらいに話しかけられたものだが、まだ元気がないなあ。
セラフィは視線を戻して、しょんぼりと池を眺めている。気持ちはかなり落ち着いたみたいだけど、落ち込んでいることに変わりはなかった。
「イーファさんとこうやって池を眺められたらよかったのになあ」
池の水面は今日もゆるやかに流れている。冬の冷たい水の中に魚の姿は見えない。
「お前から貸してもらってるあの術法書、ちょっとずつだけど毎晩読んでるんだぜ」
するとセラフィが俺を見上げた。
「そうなの?」
「ああ。俺もイザードで苦渋を味わったからな。フィオスを懲らしめるために勉強してるんだよ」
俺はポケットに入っていた紙切れを取り出して、覚えたばかりの刻印を書いていく。
間違えないように丁寧に刻印を書いて、紙切れを三センチくらいの大きさに折り曲げる。
池の淵へ近づいて、折り曲げた刻印をそっと投げ入れる。目を瞑り、手を胸の前で合わせて念を送り込む。
俺をセラフィが固唾を呑んで見守る。ここで失敗したら相当かっこ悪いから、成功してくれよ。
たくさんの水の柱が、縦一列に噴水のように立ち上っていく姿をイメージして術を行使する。
池に大きな石が投げ込まれたような音がして、俺は目を開けた。目の前には全長三メートルを超える巨大な水の柱が立ち上っていた。
「すごい!」
セラフィがすっくと立ち上がって驚嘆する。
「アンドゥ、本当に自分で勉強して覚えたの? すごいよ!」
「ま、まあな」
本当は水の柱が縦一列に立ち上っていくはずだったのだが、それは言わないでおこう。
「刻印術は、できない人はいくら勉強してもできないんだよ」
「そうらしいな」
「それなのにっ、自分で刻印を書いて術が使えるんだもん。アンドゥ絶対に刻印術の才能があるよ!」
いや、さっきの術の成功率は六割程度だったから、あまり絶賛されても困るんだけどな。
セラフィの無邪気な笑顔を見ていると罪の意識に苛まれそうだが、事実をうっかり白状しないように俺はぐっと堪えた。
「才能があるって言っても、まだお前の足もとにも及ばないからな。もっと勉強しないとダメだな」
俺がベンチに戻ると、セラフィもすぐに座った。少しは元気が出ただろうか。
「まあその、イーファさんのことは残念だったけど、あれだ。俺やアビーさんがいるから、平気だ」
何が平気なのか、自分で言っていてもよくわからないが、相手を励ますようなことを言うのは恥ずかしいから、あまり突っ込まないでくれ。
「シャロも心配してるから、その、元気を出してくれよな。部屋に篭ってると、余計に気が滅入ってくるからさ」
恥ずかしすぎて、セラフィの顔なんて見れたものじゃない。俺はそっけない素振りで立ち去ったが、後ろでセラフィが苦笑しているような気がした。
「うん、ありがとうね」




