第93話
「あっ、ご主人さまっ」
中庭の遊歩道をだらだらと歩いていると、向こうの噴水の前にアビーさんの姿があった。アビーさんはメイドの姿で手を振っている。
「あれっ、どうしたの? 仕事はもう終わったの?」
「はい! その、時間ができましたので……あのっ、ご主人さまに会いたくて」
そう言ってアビーさんが手をもじもじさせる。くぅ、今日も抱きしめたくなるくらい可愛いぜっ。
高鳴る胸の鼓動をなんとか抑えて、噴水の近くのベンチに座ろう。腰かけるとアビーさんがとなりに座った。
「ご主人さま。お稽古はどうですか。剣術は上達されましたか?」
「うーん。上達してるのかなあ。シャロが強すぎるから、全然上達してる気がしないよ」
「ふふっ。シャーロット様はお強い方ですから」
アビーさんが手をあててくすりと笑った。
「ほんとだよな。剣を交えて改めて痛感したよ。戦ってる姿を横で見てたときは、芸のひとつくらいにしか思ってなかったけど、剣を交えると全然違うな。あいつがエレオノーラ最強だって言われるのは、納得できる気がする」
あいつの実力なんて認めたくないけどな。
しかし三ヶ月間も剣術の稽古をつけてもらって、あいつとの実力の違いを身体が覚えてしまっている。
感覚的に身についてしまったものは、いくら頭で否定しても否定しきれないと思う。
アビーさんは静かに俺を見つめていたが、
「ご主人さまは、本当にお変わりになられたんですね」
そんなことを急に言い出した。
「変わった? 俺が?」
「はい。だって、昔のご主人さまは、シャーロット様のことをお嫌いになられていたのに、今はそうでもないのかなって、思うので」
アビーさんがもじもじしながら言葉をつまらせる。
今日のアビーさんは変なことを言うんだな。シャロなんて出会ったときから嫌いで、今も水一杯ほども変化していないっていうのに。
「あいつのことは好きじゃないぜ。今日だって稽古中に何度も怒鳴られたし」
「そうなんですか?」
「そうだよ。あいつ、今日も偉そうに腕組みして、動きが遅いだの、腰が高いだのと言いまくってたからな」
俺がシャロの真似をすると、アビーさんはくすくすと笑った。
「好きとか嫌いじゃなくて、あいつの実力を認めざるを得なくなったんだよ。前はあいつのことなんて認めてなかったけど、剣を交えたら、あいつの強さが嫌っていうほどわかっちまう。だから、悔しくてさ。なんか」
「悔しい、ですか」
アビーさんが俺の言葉を反芻する。
そうだ。この感情は悔しさだ。シャロに勝ちたいけど勝てない悔しさ。それが悶々とした何かを生み出しているんだ。
しかし不思議なのは、シャロに対して苛立ちを感じていないことだ。昔だったら、呪詛をかけるくらいにいらついてたのに、不思議だよな。
「だいじょうぶですよ! ご主人さまも、強くなれますからっ」
アビーさんが小さくガッツポーズして慰めてくれる。アビーさんは優しい子だな。
「ああ、サンキューな」
しかし、素直に慰められるとなんだか照れるな。恥ずかしくなって俺は視線を逸らした。
「そういえば、セラフィの調子はどうだった?」
「セラフィーナ様は、今日もお部屋で休まれてます。朝に家庭教師の方が見えてましたけど、お勉強はされていなかったようです」
今日も調子はあまりよくないのか。勉強は以前から大してやっていなかったけど。
様子を見に行ってやりたいけど、あいつの部屋は後宮の奥にあるから、男は入れないんだよな。
アビーさんなどの女の子の付き添いでも後宮には入れないから、俺は内廷と後宮の連絡口で指をくわえながら――いや、あいつが元気になるのを待つしかないか。
「部屋にずっと篭られていると、お心を病まれてしまいますよね。セラフィーナ様、だいじょうぶかな」
「そうだな。たまには外に出て気分転換でもしないと気が滅入っちゃうよな」
以前みたいに街へ頻繁に繰り出されても困るけど、部屋に篭っているよりマシだと思う。
「でも嫌がっているやつを無理矢理外へ出すわけにもいかないしな。どうしたものか」
「困りましたね」
俺が腕組みして唸ると、アビーさんがしょんぼりした。
「可愛い小動物で釣る作戦は失敗したから、今度はゲテモノ料理で釣ってみるか?」
「ゲテモノ料理って言うと、どのような料理があるんですか?」
「どのような……? そうだなあ。毛虫をつかった料理とか?」
ゲテモノ料理は俺がこちらの世界に召喚されたときに食わされたからな。
今でもよく覚えてるぞ。なんとかシロアリの青々とした卵の色を。
しかし気持ち悪いゲテモノ料理をアビーさんに運ばせるわけにはいかないな。このアイデアは廃案にしておこう。
他には騒ぎを起こしてあいつに気づかせる作戦なども思いついたが、シャロに見つかったらやばそうなのでやめておいた。
ここでずっとアビーとゆっくり話をしていたいが、これから刻印術の勉強をしないといけないのだ。俺は立ち上がって伸びをした。
「さて、これから刻印術の勉強をするから、俺はこれで失礼するよ」
「はい。がんばってください」
「俺は後宮に入れないから、セラフィのこと、よろしく頼むよ」
「わかりました」
アビーさんもゆっくり立ち上がると、俺のとなりで小さく伸びをした。