第92話
寒々とした冬空の昼下がり。アリス宮殿の内庭から木刀の激しくぶつかる音が響く。
「どうした!? 足の動きが鈍くなっているぞっ。もう疲れたのかっ!?」
冬の寒い日なのに、俺は肌着と薄手の稽古着しか着ていない。だが休みなく運動をつづけているから、温まった身体は寒さを感じさせない。
俺の剣の稽古の相手は、シャロだ。シャロも稽古着姿で長い髪を後ろで括り、苛烈な攻撃を仕掛けてくる。
「手数が少ない。腰も高いっ。そんな調子ではセラフィーナ様をお守りすることはできないぞ!」
シャロの容赦のない叱咤と攻撃が俺の身体を痛めつけていく。
「くっ、さっきから聞いてれば、言いたい放題言ってくれやがってっ」
苛立って俺は木刀を大きく振りかぶる。一撃必殺の攻撃をシャロの脳天に振り下ろした。
シャロは研ぎ澄ました目で俺の木刀を見据える。そして頭に当たる直前で身体をわずかに動かして――俺の必殺の一撃をあっさりかわしやがった。
木刀が空を切ったのと同時に、俺の鳩尾に強烈な衝撃が走る。シャロの突きで俺は突き飛ばされてしまった。
イザードから帰国して三ヶ月が経過した。エレオノーラで新しい年が迎えられた。
新年の祭典は国王陛下の主導で大々的に行われて、宮殿には数え切れない人たちが来訪していたな。
豪華絢爛に花火まで打ち上げて、あちらの世界のヨーロッパの新年の迎え方みたいだったが、そんなことはどうでもいい。
イザードから帰国して、俺はシャロに剣術の師事を頼んだ。
イザードではセイリオスの連中に襲われて、イーファさんを救うこともできなかった。己の不甲斐なさを嫌というほどに感じさせられてしまった。
エレオノーラに帰国して、俺にできることはないか本気で考えた。その末にたどり着いたひとつが、シャロに剣を教わることだった。
芝生の上にたおれる俺の耳に、ゆっくりと歩み寄ってくる足音が聞こえてくる。俺の視界の端っこにシャロが顔を覗かせた。
「もう終わりか? 稽古を開始してまだ二十分しか経っていないぞ」
シャロは強い。こちらに召喚されたときからわかっていたけど、直に対決すると痛いほどによくわかった。
マジでたおす気でいつも稽古してるけど、まるで歯が立たないのだ。もうかれこれ三ヶ月以上も稽古に付き合ってもらっているけど、こいつに一撃を食らわせられたことすらない。
さすが、フィオスや他の手練を撃退してきたやつだ。俺は首だけ曲げて言った。
「うるせえな。ずっと稽古してたんだから、少し休憩だよ」
「ふん。この程度で疲れるとは、情けない」
シャロは可愛くない顔で腕組みした。そしてなぜかしたり顔で笑って、
「だがまあ、貴様も少しはやる気になったようだからな。そこは素直に評価してやってもいい」
えらそうにうなずきながら俺を批評するな。
「ちょっと強くなりてえって、思っただけだ。お前に褒められたかったわけじゃない」
そっぽ向くと、シャロの薄く笑う声が聞こえた。
「理由がなんであれ、鍛錬を積むのはよいことだ。己の身についた知恵や技能は無駄にならないからな」
ふん、学校の先生みたいなことを言いやがって。
身体を起こして、横向きで立つシャロを見上げる。シャロは木刀の先端を指でなぞっている。
シャロに師事して三ヶ月になるのに、こいつは一度も休まないで俺の稽古に付き合ってくれている。
こいつは俺のことが嫌いなはずなのに、なんで律儀に付き合ってくれるのだろうか。宮中の仕事の合間をわざわざ縫って。
「なあ。あんたは宮殿の仕事で忙しいのに、なんで俺の稽古に付き合ってくれるんだ? 俺のことなんて別にどうでもいいんだろ?」
するとシャロは白い顔で俺を見下ろしてきた。少し切れ長の目は睫毛が長くて、モデルのような顔立ちだ。
そして少し照れているのか、頬を少し赤くして、
「ま、まあ、貴様のことは嫌いだな。わかり切っているとは思うがなっ」
そんなにはっきり言うな。わかり切ってても多少は傷つくぞ。
「だが近侍の貴様が強くなれば、セラフィーナ様の安全度がより高まる。セラフィーナ様を守護する禁衛師士として、わたしは当然の責務を果たしているだけだ」
なるほど。すべてはあいつのためなのか。わかりにくいけど、実にお前らしい回答だよ。
でも、こちらの世界に召喚されてからずっと思っていたことだけど、シャロはなんでセラフィにここまで忠節を誓えるのだろうか。
変わり者のあいつに振り回されてばかりで、苦労してることの方が多いはずなのに。
「なあ、あんたはなんでそこまで真面目になれるんだ? あいつの近くにいたって、しんどいことばっかりだろ。それなのに、なんで、そこまでできるんだよ」
もうかれこれ何ヶ月も気になっていたことだし、こいつにこれ以上嫌われることもないだろうから、ずばっと切り出してみる。シャロは困惑して口を噤んだ。
内廷から肌寒い朔風が吹き付ける。動きの止まった身体は熱が少しずつ失われて、風の寒さを感じさせる。
細い背中を向けたシャロは、冷たい朔風を受けても凛と立ちつづけていた。そして、
「セラフィーナ様のお母様に恩返しがしたいからだ」
そうつぶやいた。
「セラフィの母さん? それって、あいつが小さいときに、たしか病気で亡くなったっていう」
「そうだ。六年前にお亡くなりになられたアンジェリーナ様だ」
中庭に植えられた名前の知らない草花が揺れ動く。
「わたしは禁衛師士としての教育を受けて、十五歳になって宮殿に迎え入れていただいた。しかし、男性の多い宮殿の環境になかなか馴染めなくてな。そんなときに温かいお手を差し伸べていただいたのが、アンジェリーナ様だったのだ」
男勝りのシャロにそんな過去があったんだな。今では男の先頭に立って行動しているが。
「アンジェリーナ様はとてもお美しい方であられたが、同時に独創的な趣味やお考えをお持ちの方だった。宮殿では官吏や召し使いたちと分け隔てなくお話をされ、また街に降りて多くの民へも愛情を注いでおられた。農奴の開く祭りにもよくご参加されていた」
なるほど。つまりセラフィは、母親の遺伝子を濃厚に受け継いだというわけか。アンジェリーナ様の奇人っぷりがありありと想像できるぞ。
「アンジェリーナ様は民の気持ちに理解を示される、大変お優しい方だった。だからきっと、わたしの気持ちなども手に取るようにおわかりだったのだろうな。わたしのことを実の娘のように可愛がっていただいた」
シャロが振り返って俺を見下ろした。
「エクレシアは、アンジェリーナ様から託されたものだ。わたしに替わってわが国を守ってほしいと、アンジェリーナ様がお亡くなりになられる直前に、わたしを枕元へお呼びになられてな」
あの剣にそんな痛ましい思い出があったのか。ああ、だからシャロはエクレシアを肌身離さずに持ち歩いているんだな。知らなかったよ。
シャロがそっと息を吐いて空を見上げる。色の薄い冬空に白い太陽が光り輝いている。
「そういえば、セラフィーナ様のご様子はどうだ? お元気になられたか?」
「いや、あんまり変わらないな。今日も部屋で塞ぎ込んでるんじゃないか?」
セラフィはイーファさんのことがショックだったのか、底なしの元気が失われてしまった。
あいつをなんとか元気づけさせようと、アビーさんと遊んだり、めずらしいものを持っていったりしているが、効果はあがらなかった。
「そうか。セラフィーナ様は多感なお年頃だから、無茶をして余計な刺激をあたえない方がよいだろうな」
「そうだな」
「わたしも仕事の折り合いがつかなくて、セラフィーナ様のお顔を拝見できていないから、後でご挨拶に向かおう。貴様の方も引きつづき頼んだぞ」
「ああ、わかったよ」
シャロは稽古着の襟もとや袖を伸ばして身だしなみを整える。木刀を下げて宮殿へと消えていった。