第91話
「フィオス様」
工房から帰る私の前に立ちはだかったのは、サリファだった。
彼女のいつもきれいに整えられている黒髪はめちゃくちゃに振り乱れている。懊悩して何度も頭を掻き乱したのか。
胸元の開いたドレスは、ロングスカートの裾にいくつか皺ができている。彼女が日常的に愛用している特注品だが、皺や汚れに気をまわす余裕すらないということか。
そして腰の剣帯からぶら下がっているのは、一本の剣――。
彼女が決死の表情で私の腕をつかんだ。
「フィオス様っ。あたしも、一団にくわえてください!」
彼女の細い指が私の腕を力いっぱいにつかむ。
「グレンフェル様には遠く及びませんが、あたしにも、剣の心得がありますっ。どうか、あたしもっ、セイリオスのメンバーにくわえてください!」
サリファはまだ若年だが王国に仕えている騎士だ。剣の腕は未熟なところも目立つが、目覚しい早さで上達している。
彼女は、叔父もひそかに注目しているほどの将来有望な騎士見習いなのだ。それなのに、この若さで危険な戦いに身を投じさせてもよいのか。
サリファは最愛の姉を失ったばかりに逆上し、仇討ちに躍起になっている。そんな彼女をイリスに行かせたりしたら、夭折させてしまうかもしれない。
私は彼女の手を振り払った。
「だめだ」
「なぜです!?」
冷然と彼女に背を向けると、サリファはすかさず私の手をとった。思いっきり引っ張るような力強さで。
「あたしでは、力不足なのですか!? 姉様やアリシダは認められているのに、あたしでは――」
「そうではない」
「ではなぜです!?」
サリファがまわり込んで私の前に立つ。入団を認めるまでは通さないぞと、怒る目が言葉以上のメッセージを送ってくる。
感情的になっているサリファを説得するのは、予想以上に困難かもしれない。だが彼女を直情的な復讐鬼に変えさせないためには、私の口でなんとしても説得しなければならない。
口からたまらずため息が漏れた。
「きみの卓越した剣の技術は、わが国の未来を担うものだ。それは決して、イーファやアリシダに劣ってなどいない」
「ならば、あたしの入団を認めてくださってもよいではありませんか。なぜ認めてくださらないのです」
「わからないのか?」
「わかりません」
聞き分けの悪い子供のようにサリファが言い放つ。普段の彼女は可憐で素直な子なのだが、彼女の細い身体の中にこんなに強い意思が込められているとは思いもしなかった。
しかし――いや、だからこそ、暴走する彼女をここで止めなければならないのだ。
私は再びサリファの手を振り払って言った。
「私が懸念しているのは、きみの能力の高さではないということだ。今のきみは姉の死に逆上し、冷静さを失っている。そんな状態でイリスの人間どもを相手できると思っているのか?」
「で、でもっ、あたしは、姉の仇を討ちたいんですっ!」
「きみの気持ちは充分に理解しているつもりだ。しかし、きみにもしものことがあったら、イーファはどう思う?」
「そ、それは」
イーファの名前を出すと、サリファははっとわれに返って口を噤んだ。固くにぎりしめた手をふるわせて。
「きみもアラゾン人たちの虜となり、やつらにむざむざと惨殺されるようなことになったら、私はイーファの墓前になんと詫びればよいのだ。頼むから、私とイーファを困らせるようなことは言わないでくれ」
悔しい気持ちはわかるが、冷静さを欠いた人間を作戦に組み込むことはできない。彼女の失敗はメンバーの死につながるかもしれないのだから。
サリファはがくっと肩を落として憔悴していた。私の想いが届いたのか、反論する気力はなくなったようだ。
少しかわいそうではあるが、ここでおとなしく引き下がってくれるか。
そう思う私を余所に、サリファが不意に右手のひとさし指を向けた。
「フォオス様。その曲刀はなんですか」
ひとさし指の先にあったのは、私が持つスファギだ。
「これは――」
私の言葉を待たずにサリファが素早く身を乗り出す。あっと驚く間にスファギを掠め取られてしまった。
「サリファっ」
サリファが両手でスファギを持って鞘をまじまじと見つめる。顔色を変えて恍惚と見入っている。
「この曲刀から並々ならない波動を感じますね。なんなのですか、この曲刀は」
彼女が柄をにぎり、スファギをゆっくりと引き抜く。鮮血のような紅蓮の刃が彼女の荒れ果てる心をさらに掻き乱す。
「ああ、なんていう禍々しさなんでしょう。この血で染まった曲刀は、あたしの心を映し出しているようです」
「サリファ。やめなさい」
私はスファギを奪い返そうとしたが、サリファは素早く身をひるがえしてスファギを抜き放った。
「こんな素晴らしい名刀は初めてお目にかかりました。今日からあたしの愛刀にしたいと思います。いいですわね」
「だめだ」
私が制止すると、サリファは吊り上がった目で睨みつけてきた。普段の心優しい彼女とは思えない凶悪な表情だった。
スファギは持ち主を不幸にする、呪われた刀なのだ。今も刀に取り憑いている悪霊が彼女に乗り移り、彼女を悪魔へと豹変させている。
「その刀は、呪われている。そんなものをつかったら、きみは――」
「呪われてもいい!」
彼女の怒号に私は唖然としてしまった。
「なんだとっ」
「あたしは、呪われてもかまいません。姉様のいない世界なんて、生きていても価値なんてないのですから。姉様の仇を討ったら、あたしも姉様のところへ向かうつもりです」
彼女の身体が小刻みにふるえる。琥珀色の美しい瞳が涙であふれて、彼女のふっくらとした頬を濡らす。頬も真っ赤になっていた。
「あたしは、絶対に許さないっ。姉様を殺したやつらを。姉様の仇を討つためだったら、どこへだって行ってやる」
スファギの柄から戛々と金属音が発せられる。彼女のふるえる想いがスファギを揺れ動かしているような気がした。
「絶対に、許さない。姉様を殺したアラゾン人どもを、ひとり残らず殺してやるっ」




