第88話
エレオノーラの特使がイザードを発ったのは、それから五日も後のことだった。
凶悪な事件が立て続けに起きたり、はたまた部下の反逆が露見されて、もはや外交どころではなかったけれど、帰国の準備や挨拶などをしないといけなかったので、出港までにそれだけの時間を要してしまったのだ。
城は、幻妖の襲撃で城壁から城の中までめちゃくちゃに破壊されちまったから、復旧にはかなり時間がかかりそうだ。
さらに国政の中心を担っていた宮伯のキボンヌも更迭されちまったから、イザードが政治体制を立て直すまでに数ヶ月はかかるだろうとシャロが言っていた。
出港する最後までイザードにはいい印象をもてなかったけど、これからの苦難を想像するとなんだかかわいそうになってくる。
そういえば、出港する直前にマリオがかなりがんばっていた。セラフィと別れる直前に、「ぼ、ぼくはっ、かならず、あああなたに、ふさわしい人になるからっ」と、壮絶に噛みながら告白していたのだ。
その想いがセラフィに届いたのかどうかはわからないし、そもそもマリオがセラフィと結ばれるのは現実的に考えてかなり厳しいのだろうが、そんな雑念を省みずに好きな人を想えるのは少しすごいと思う。
物事を現実的かつややマイナスに考えてしまう俺では決して真似できないもんな。
マリオはぽっちゃり体型だしファザコン疑惑が濃厚だったりするけど、そのひたむきさだけは感心せざるを得なかった。
そんなことを振り返りながら、俺はひとり甲板にあがっている。飛行船はゆっくりと前進しながら帰路についている。
甲板の手すりに肘をついて、景色をぼんやりと眺める。船の下には白い海のような雲が彼方まで広がっている。
雲海は今日もそよ風に流されて、空をゆるやかに移動している。イザードに凶変があっても、俺が鬱然と見下ろしていても変わることはない。
――お主らアラゾン人が奈落と蔑む世界、その一帯を支配圏としているのがわれらだ。
グレンフェルは王の間でそう言っていた。奈落の一帯を支配する国の人間であると。
エレオノーラでは、雲海の下は陸地のない奈落が広がっていると信じられている。理由は、よくわからない。
だが、最初からわかっていたことだけど、雲海の下に陸地がないなんて、やはりおかしかったんだ。
奈落なんていうものはない。雲海の下には陸地がちゃんとあって、そこにフィオスやグレンフェルの暮らす国があったんだ。
だからフィオスがエレオノーラにいたときに奈落の矛盾を俺に話してきたんだ。あのときはどうしてそんな話を俺に持ちかけてくるのか、まったくわからなかったけど。
「ご主人さま」
声をかけられたので振り返ると、後ろにアビーさんがたたずんでいた。
いつものミニスカフリルメイドの服装で、ミニスカートの裾と赤茶色のツインテールの髪が風になびいている。
「お部屋におられなかったので、どちらに行かれているのかと思いました。こちらにいらしたのですか」
「ああ、ごめんね。それで、どうした? 船内でなんかあった?」
「あ、いえ。とくに変わったことはないです」
アビーさんがとなりに来て苦笑する。
「イザードの観光、できませんでしたね」
「観光……?」
「はい。落ち着いたらイザードの名所を観光しようって、話をしてたじゃないですか」
そんな話をしてたんだっけ? 全然記憶にないが。
でもアビーさんのまっすぐな瞳を見ると、俺がきっと覚えていないだけだろう。
俺は堪らずに頭を掻いた。
「そうだったな。いろんなことがあり過ぎたから、観光する余裕なんてなかったもんな」
「いろいろ、ありましたね」
アビーさんが手すりに手をついてうつむく。
イーファさんが亡くなってから、アビーさんは気分がふさぎがちなのか、いつもより元気がない。
普段からおとなしい子だし、セラフィみたいにうるさくはないけど、俺が話しかけるといつもひかえめな笑顔で会話に付き合ってくれた。
けれど、あの日から笑顔はめっきりと減ってしまって、セラフィといっしょにふさぎ込むようになってしまった。怪我人の看護による心労もたまっているのかもしれないけど。
「イーファさまのことは、シャーロットさまから聞きました。……フィオスさまの、部下だったんですね」
「ああ」
「お城を襲ってきた、あの怖い人たちも、フィオスさまのお仲間なんですよね」
アビーさんはフィオスに酷いことをされたから、今でもその記憶が根強く残っているんだろうな。いつにも増して声が弱々しい。
「セイリオスの連中は、この世界を壊すために活動しているらしい」
「はい」
「だからフィオスは天穹印を破壊しようとして、グレンフェルはイザードをめちゃくちゃに壊滅させようとした」
口に出してみると、それがどんなに恐ろしい計画なのかが改めてわかる。
世界を壊すなんて口にするのは簡単だけど、それを実行に移すやつはそういない。
あいつらはさらに具体的な方法を提示して計画を実行している。強さも去ることながら、その考え方と異常さは本当に厄介だ。
「イーファさまの日記、読みました」
アビーさんが消えそうな声でつぶやく。
「イーファさまは、悩んでおいででした。フィオスさまに命じられていたのかもしれませんけど」
アビーさんの言う通りだ。
王の間で対峙したときは気丈に振る舞っていたけど、本心ではきっとフィオスたちの計画に賛同していなかったんだと思う。
じゃなければ、あんな日記を残すはずはないんだ。
「イーファさまは、お優しい方でした。幻妖のわたしにも気遣っていただいて、なんて気品にあふれた方なんだろうって、思いました」
アビーさんのつぶらな瞳から涙があふれ落ちる。
「それなのに、どうして、どうして……」
アビーさんはそのまま泣きくずれてしまった。
なんで、あんなことになっちまったんだよ。
六日が経っても、未だに納得することができない。
いや、何日が経過しても、納得なんてきっとできないと思う。
イーファさんはセラフィやアビーさんと楽しく会話する傍らで、ずっと悩んでいた。だれもいない部屋で懊悩していたのかもしれない。
そして俺なんかよりずっと聡明な人だったから、いずれ袂を分かつ日が来ることを予期していたんだと思う。
そうとも知らずに俺たちは、イーファさんの優しさを当たり前のように受けていたんだ。
イーファさんに会って、もう一度言いたい。他に方法はなかったのかよ。
イーファさんもセラフィもアビーさんも、みんなが笑顔になれる最高の方法が、きっとあるはずだったんだ。
それがわかっていれば、こんな不幸にならずに済んだんだ。
ああ、と心の中で長嘆する。空は今日もこんなに青いのに、なんで俺たちの気持ちは晴れないのか。
このままでは済ませられない。今はまだ明白な答えなんて出ないけど、無念の死を遂げてしまったイーファさんのためにも、俺たちがなんとかしなければいけないんだ。
「イーファさんのためにも、俺たちでフィオスを止めよう。そうすればきっと、イーファさんも笑顔になってくれるよ」
泣きくずれるアビーさんを抱きしめると、アビーさんが胸の中でうなずいた。