第85話
アムラウたちのひどく充血していた目が正気に戻っていく。さっきまで暴れていたのが嘘のように静まり返って、主人であるイーファさんの元へと戻っていく。
そして気絶しているイーファさんの頬をすり寄せると、二匹のアムラウはふわりと姿を消してしまった。
術師の意識が途切れたから、召喚術の効果が切れたのか。
「なんだとっ!?」
この結果に一番驚いたのは、意外にもグレンフェルだった。あいつはいつもの冷静さを一変させて目を見開いている。
「は!」
一瞬の隙を突いてシャロが抜刀する。右斜め上に斬り上げられたエクレシアの白刃が、グレンフェルの分厚い胸板を斬り裂いた。
「戦いの最中にどこをよそ見している。それとも貴様の国ではそれが一般的なのか?」
「おのれっ」
傷口を抑えて苦悶するグレンフェルをシャロが真っ直ぐに見据える。
さっきまでアムラウを相手するので手一杯だったから、全然気づかなかったけど、あいつらはあいつらで死闘を演じていたようだ。
けれど、遠くから見た感じではシャロは無事そうだ。対するグレンフェルは、両手剣が床に転がっているな。戦闘中に落としたのか。
昨日はあんなに苦戦して、しかも今日は身体の血量が少ないはずなのに。シャロはやはり一流の剣士だ。
「陛下っ!」
王の間の扉がばたんと押し開けられて、王師の人たちが次々と乱入してくる。どの人も血塗られた剣を引っ提げて、必死そうな形相を浮かべている。
この人たちは廊下で幻妖と戦っていたはずだが、他の幻妖もアムラウと同様に消失したのか。イーファさんがたおれたから。
そうなれば、敗残兵はひとりだけだ。
「さあ、あとはてめえだけだグレンフェル! さっさと手をあげて降伏しろっ」
床に落ちていたスパダを拾って、その切っ先を向けてやる。するとグレンフェルは、はっきりとわかるくらいに狼狽した。
「おのれ。愚かなアラゾン人どもめ」
敵役らしい、いかにもな返し言葉を吐いても余計に虚しくなるだけだ。
グレンフェルはあたりを見回して、ブラックコーヒーを呑んだ直後みたいな顔をする。そして気絶しているイーファさんをちら見して、「ち」と舌打ちする。
お前がいくら裏技を駆使しても、もう勝ち目はないぞ。俺にシャロ、そして王師の人たちで完全に包囲しているんだからな。
そう思っていたら、グレンフェルが懐からダガーをとり出して、俺に投げつけてきた。
まさかの不意打ちだったが、距離があったので回避することができた。俺は眉間に突き刺さる既のところでダガーを叩き落とした。
グレンフェルもさすがに窮地だと悟ったのか、身を翻して逃亡する。
ガラスの突き破られた窓からベランダに入り、さらに手すりに手をついて軽々と飛び越えた。
待て、ここは三階だぞ!?
俺もシャロに続いてベランダに入って下を覗き込んだが、グレンフェルは飛び降り自殺なんてしていなかった。二階の屋根を器用に伝ってうまく逃げていたのだ。
「あの男が逃げ――」
「どけっ、シャロ!」
俺はシャロを押し退けてポケットに手を突っ込む。とり出した炎の刻印をにぎりつぶして、グレンフェルに向けて放った。
ここぞのために用意していた刻印術だ。食らいやがれっ。
太陽みたいな巨大な火焔の玉がグレンフェルに向かっていく。
当たる直前であいつは炎に気づいたが、回避するのが遅れて背中を直撃。グレンフェルが紅蓮の炎に包まれた。
「やったぞ!」
炎が爆弾の破裂音を出して燃え盛る。だが、その下からグレンフェルがひょっこりとあらわれて、二階の屋根を平然と走り去っていく。
グレンフェルの姿が薄着になっていたことから察するに、あいつは炎に呑まれる寸前で上着を脱いで、上着を的に変えていたのだ。
あの瞬きするくらいの間でよくもそんなことができるな。やつもシャロに劣らずの百戦錬磨だということか。
「あの男は西門に逃げていったぞ。早く捕まえるのだ!」
シャロの果敢な号令が飛んで、王師が王の間を飛び出していく。シャロもエクレシアを鞘に納めて足早に飛び出していった。
* * *
人ががらんといなくなった王の間は、急に静かになって、なんだか寂れた商店街みたいになってしまった。
部屋に残っているのは、俺とセラフィ。そして気絶しているイーファさんと、テレンサしかいない。
「イーファ……」
セラフィはイーファさんの傍らで座り、じっと彼女の横顔を見つめている。グレンフェルの件で騒がしかったときからずっと、赤く腫れた目でイーファさんのことを物悲しそうに眺めていたのだ。
信頼していた人に裏切られて、セラフィはどんなことを想っているのだろうか。でもイーファさんにはイーファさんの確固たる理由があったのだから、一方的に責めることもできないわけで。
だけどイーファさんだって、こんな結末は望んでいなかったはずだ。いや、セラフィも。俺だってそうだ。
こんなとき、セラフィにどんな言葉をかけてやればいいんだろうな。
気休めの言葉なんて、かけられない。セラフィとイーファさんの想いは、そんな簡単に片付くものじゃないんだ。
「イーファさんにも、深い事情があったんだ。だから、お前のことを裏切りたくはなかったんだ」
「……うん」
「だから、そんな顔は、もうするな」
「うん」
やっぱり、だめだった。かける言葉を一生懸命に考えたけど、何も浮かばなかった。
右手に持つ剣をあげて、ゆるやかに曲がった刃を見やる。傷ひとつなかった表面にはところどころに傷がついている。刃先もわずかに刃こぼれしていた。