第74話
二階は、二本の長い廊下がフロアを縦断する構造になっている。ロビーの幅広な階段から二本の廊下がT字路みたいに枝分かれして、壁にぶつかったところで直角に折れ曲がっている。
中学校の校舎を前後に重ねて、その側面がロビーになっているような構造かもしれない。
二本ある廊下のうち、東側の廊下を俺は走っている。セイリオスのリーダーのあいつがこっちの廊下に入っていったからだ。
俺の足は、五十メートル走のタイムが八秒二という、微妙に突っ込みしずらい俊足だが、あいつはそれよりも遥かに速い足で走っている。正面を走っているあいつの背中が、みるみる遠くなっていく。
あいつのタイムは絶対に七秒台だ。いやもっと速いか? すまないが五十メートル走の平均タイムがどのくらいなのか知らないから、具体的な数値は割り出せそうにもない。
二階にも王師の人たちがいたみたいで、あいつと戦闘になったが、一度も刃を交えないで斬られてしまった。
あいつが通りすぎた跡には、一撃で斬られた人たちが死屍累々と横たわっている。
走り抜けるときにちらりと様子を見てみたけど、言語に絶する状態だった。剣で顔面をぶっ刺されたのか、顔の左半分が無残につぶされていたのだ。
向こうの隅っこでたおれている人は、右のわき腹からものすごい深さで斬り上げられたのか、出てはいけないものが出ているし。こんな惨たらしい光景は直視できないから、黙祷しながら屍を超えていくしかない。
「う……」
後ろからうめき声が聞こえたのでふり返る。イーファさんが壁に手をついてうずくまっていた。
イーファさんは右手でお腹をおさえて、すごく気持ち悪そうにしている。
「だいじょうぶですか」
セラフィのことが気がかりだが、イーファさんを放置するわけにもいかない。どうしたらいいのかわからないので、とりあえず背中をさすってみるが、こんなことで気分が回復するわけがない。ただでさえ白い顔も蒼白だし。
「すみませ――」
イーファさんは懸命に起き上がろうとするけど、耐え切れずに廊下に嘔吐してしまった。胃液しか出ていなかったが。
「気分が悪いんですか。なら無理しない方がいいですって」
「だいじょうぶ、です。わたし、なら――」
言っているそばから、また吐いてしまった。
気持ち悪くて起き上がれないんだから、これ以上進むのはもう無理だって。
「わたしは、血が……」
「血が?」
「はい。苦手、なんです」
それで急に気分が悪くなったのか。
王師の人がたくさん斬られたから、廊下は血の嫌な臭いで充満している。苦手な人だったら、この場所は地獄だろう。
俺は血が特別に苦手なわけじゃないけど、それでもこの鉄っぽい臭いは好きではない。この鉄と体液を交ぜた独特な異臭が、鋭利な刃物などの殺伐とした何かを連想させるから、妙な不安をおぼえてしまうのだ。
「そこに階段がありますから、イーファさんは一階の空き部屋で休んでいてください」
「すみません。足手まといにはならないと、豪語したのに」
「かまいませんって。それより立てますか? 俺の肩につかまってください」
イーファさんは起き上がれないみたいだったけど、俺が近づくとかぶりをふって、
「わたしのことは、気にしないでください。ユウマさんは、先に」
「でも」
「わたしなら、平気ですから。早く、陛下と、セラフィーナ様のところへ」
今にも気絶しそうなのに、俺に気を遣わせまいとしているのか。ここで俺がごねたら、むしろイーファさんに迷惑をかけるかもしれない。
「わかりました。ですが、イーファさん。すぐに避難してくださいよ。ここにいたら危険ですから」
「はい。……ありがとうございます」
イーファさんは冠の下からたくさんの汗を流しながら、ゆっくりとうなずいてくれた。表情をほとんど変えずに。
* * *
セイリオスの連中は、どうやって城に侵入したのか。
城に入るためには東西南北の四門のどれかをくぐるか、城壁をよじ登らなければならないのだが、城門は昼夜問わずに厳重な警備が布かれていたし、城壁は簡単によじ登れるものじゃない。
城壁の高さは、マンションの六階くらいもあるのだ。その上、表面はつるつるしているから、手でつかまりながら登るのはまず不可能だ。
仮にロープか何かでよじ登ったとしても、城壁の上にも警備兵が目を光らせているんだから、登り切る前に見つかるはずだ。
それなのに、あいつらは幽霊みたいに忽然と姿をあらわして、俺たちに剣を向けてくるのだ。一体何がどうなっていやがるんだ。
壁をすり抜ける刻印術でも行使したのだろうか。または対象を特定の場所へと転送させる術法などがあるのか。
だめだ。頭をひねっていろいろと考えてみたが、これ以上の結論は導き出せない。
息が切れ切れになりながら走り切ると、テレンサやマリオの部屋のならぶフロアへと到着した。
その部屋の前で、リーダーのあの男がはげしく牙を剥いて戦っている。相手はシャロだった。
シャロは万が一の事態を想定して、セラフィの近くの部屋を借りていたのだ。そんな最悪な想定の通りになってしまうなんて。
シャロはいつの間に着替えたのか、ピンク色のパジャマではなくて、キャミソールみたいな肌着を着ていた。生地の薄い、薄皮一枚の肌着がシャロのわりと大きめな胸にぴったりと張りついている。
シャロの後ろにある扉が開いていて、そこからテレンサが顔をのぞかせていた。
「は、早く、その狼藉者を成敗するのだっ」
ものすごくびびりながらシャロに叫んでいる。テレンサの後ろにはマリオと、その弟のルイージだったか? もいて、空気椅子をやっているときみたいにがたがたと身体をふるわせていた。
シャロは俺に気づくと、少年漫画のキャラクターみたいに目をくわっと見開いた。
「貴様も加勢しろ!」
激しく怒鳴られてしまったが、こんなところで呑気に指をくわえている場合じゃない。
俺はポケットから刻印術の紙をとり出して、右手でくしゃくしゃに丸める。胸の前で手を合わせて精神を集中させると、俺の前に五つの電気の球体が出現した。
電撃で相手を感電させる新種の神使術だ。
「これでも食らえ!」
両手を突き出すと、紫色の球体があいつに向かって飛んでいく。
リーダーのあの男は紛れもなく戦闘のプロだが、剣や槍での近接攻撃を得意とするタイプだ。遠距離からの攻撃は得意ではないはずだ。
だから接近戦はシャロにまかせて、俺は遠くから放出系の術法で援護するのだ。
しかし、小型の隼のように高速で飛来する電撃が、すべてかわされてしまった。
あいつは電撃の直線的な軌道を瞬時に読み取って、上半身を前後にくねらせて避けてしまうのだ。
俺は立て続けに攻撃するが、必死の追撃も虚しく全部かわされてしまった。こいつ、超人か――。
「おい!」
シャロの悲鳴と同時に、俺の顔面を目がけて何かが高速で飛びかかってきた。
ほぼ反射的に首を傾けると、壁際に立つ俺の顔のとなりにサバイバルナイフのような刃物が突き刺さっていた。壁と直角に、刃の半分以上が見えなくなるほどに深々と。
「もう終わりか? 異世界から召喚された人間よ」
超人のようなあいつがナイフを投げた姿勢のまま、顔だけを俺に向けていた。




