第53話
忍者みたいな忍び足で客舎を抜け出した。
客舎の外はものすごく静かだった。夜の森は人気がなくて音もほとんどしないから、結構不気味だ。遠くの方から梟の鳴き声みたいものが聞こえてくるけど、それも逆に気味悪さを引き立たせている。
今日は月夜なので思ったより暗くないが、木が茂っているところは真っ暗だから、わき道には迂闊に入れないぞ。
なんて思っているのに、
「夜にこっそり抜け出すのって、すっごいわくわくするね! ねえねえどこに行くの!?」
有名バンドのライヴを観に来た感じで、セラフィが俺にまとわりついてくる。
「大きな声出したらシャロにばれるだろ」
「だってだって、こういうの初めてだから、どんな風にしてればいいのかわからないんだもん! アンドゥだって、ちょっとは興奮してるんでしょ?」
いや、そこまでは興奮していないが。
都の条例を無視して夜中にコンビニに行くのなんて日常茶飯事だから、俺には真新しさなんて皆無だ。
そんな俺の下らない習慣はさておき、どこに行こうか。
このまま森を歩いていてもしょうがないから街に行ってみたいが、肝心の道がわからない。さっそく二股の道に差しかかったが、どっちの道を選べばいいんだ?
車に乗っているときに道を覚えておけばよかったけど、夜に出歩くことなんて考えていなかったからな。
「それでどこに行くの!? 公園?」
セラフィは俺の杞憂なんて気づかずに、生まれたての子犬のような声をあげて、その辺をぴょんぴょんと飛び跳ねる。
それでもなお興奮が冷めやらないのか、飛行機の羽根みたいに手を広げて、小走りで夜道を駆け回っている。ああもう、あんま遠くに行くなって。
「こんなに暗いのに、全然怖くないんだな」
「だって、何かあってもアンドゥが護ってくれるんでしょ?」
なにっ。
セラフィの衝撃的な一言が、俺の心の真ん中をどすんと打ち砕いた。
そんな向日葵のような笑顔で頼りにされたら、男心が過敏に刺激されちまうじゃないか。
まずい。セラフィの純粋な笑顔がこの上なく可愛くて、心臓の鼓動が早くなってきた。
落ち着け。あいつはゲテモノ好きの、気分で自分の頭を巨大なアフロヘアにしちまう変態女だ。無邪気で天真爛漫な笑顔が可愛くても、あいつが俺の恋心をくすぐる異性たりえることなど、絶対にありえないのだ。
だまされるな。惑わされるな。
「ねえアンドゥ。どうしたの?」
気づいたら、セラフィが見上げながら首をかしげていた。
「別に、なんでもねえよ」
怪訝そうに見つめるセラフィの視線を振り切って、目の前の道へと意識を戻す。
困った。思い立って出てきたのはいいが、しばらく歩いても森を一向に抜けられない。
方角がわからないし、そもそも地図すら持っていないんだから、普通に考えたら街になんて着くわけがないよな。車で数分もかかる距離なんだし。
今日の散歩はあまりに無謀だったみたいだ。セラフィ、すまない。
「なあセラフィ」
「なあに?」
「街に行こうと思ったけど、道がわからないから無理だ。どうしようか」
そんな無責任な発言をしたら、セラフィはどんな顔で怒ってくるのだろうか。
けど、前を歩きながらふり向いたセラフィは呑気に伸びをして、
「じゃあ、このまま彷徨っていようか」
少しも気にしていなかった。
「それじゃあ出てきた意味がないじゃんか」
「だって、道がわからないんでしょ? だったらいいじゃん。このままぶらぶらしていようよ」
「でも、それだとつまらないんじゃないか? せっかく出てきたのに」
そう言いかけたところで、セラフィが不意に足を止めた。うつむいて、広げた両手を降ろして、力なく下がった肩がすごく寂しげで。
「行き先なんて、別にどうでもいいの。あたしは夜道を歩いてみたかっただけだから」
どうしたんだよ。さっきはあんなにはしゃいでたのに、急に静かになられたら気になるじゃないか。
今日のセラフィは、ダメだ。色々と気になって仕方がない。
「ねえアンドゥ、前もいっしょに会話したよね。夜に、王宮で」
「ああ。出発する前の日のことだろ?」
困惑しながら返答すると、セラフィはふり返って苦笑した。
「夜にアンドゥと会話してるとね、気分がすごく落ち着くの。あたしもどうしてなのか、よくわからないんだけど。……だからね、こうやって、いっしょにぶらぶらしてくれてるだけでいいの」
そんな、やめてくれよ。
そんなことを告白されて、俺はどんな顔をすればいいんだ。
俺は人から頼りにされるような男じゃない。いつもアビーさんのメイド服姿ばっかり考えたり、シャロに仕返しをしてやろうと画策しているような、どうしようもないやつだ。
それなのに、お前は……。
セラフィは無理につくり笑いをして、俺の手を両手でつかんだ。
「ね? だから早く行こっ!」
* * *
そんなしっとりとした会話があったものだから、俺の恋愛フラグがあやうく立ってしまいそうだったが、
「あれー? おかしいな。どこまで来ちゃったんだろ?」
セラフィにまかせてその辺をふらふらしていたら、みごとに道に迷ってしまった。
おかしい。ふらふらと言っても一本道をそのまま歩いていただけなのに、一体どこで道を間違えちまったんだ。
「ねえアンドゥ、こっちから来たよね?」
セラフィが道の先を指すけど、さっきからこの道を歩いているから、全然こっちな気がしない。先を見やっても暗がりしかないし。
足の筋肉がそろそろ悲鳴をあげるくらい歩いたから、もうじき客舎が見えてもいいはずなのに、見えるのは木々と漆黒の闇だけだな。
道を変えるしかないのか。だが、夜の森のわき道に入るのは危険じゃないか? もっと迷う羽目になりかねないぞ。
「どっちの道かなー?」
まっすぐ突き進んでいると、左右に枝分かれした道に突き当たったので、セラフィが「うーん」と腕組みして思案する。
俺も思案してみるが、知らない道を思案したところで明確な答えなんて得られるわけがない。
こういうとき、人間は直感で利き手の方向を選ぶらしい。俺とセラフィはともに右利きだから、そのルールを適用したら右に行くべきだろうか。
「とりあえず、利き手の方に行けば安全だろう。右に行くか」
「ええー? それじゃあ面白くないから左に行こうよ」
いや面白い方じゃなくて、正しい方に行くんだろ。
でも、右が正しいという保障だってどこにもないのだ。それなら、セラフィが推す左の道を選んでみるか。
セラフィの意見を採用して、左の道を突き進んでみたが――。
「……着かないな」
行けども行けども森の道がつづくばかりで、客舎にたどり着かない。
「さっきのやっぱり右だったんじゃないか?」
「ええっ、そんなことないよー。もうちょっと進めば、ほら! 着くから」
セラフィがしきりに前を指すけど、もう全然説得力が――。
そのときだ。近くの茂みが突然がさがさと音がして、心臓が飛び出しそうになった。
「な、何だっ!?」
とっさにセラフィの前に出るが、茂みの奥から「ウウ」と地響きみたいな唸り声が聞こえて、俺の足が早くも武者震いしてきた。
ものすごく尋常でない殺気まで茂みから放出されているような気がするが、平気なのか。
茂みから出てきたのは、幻妖としか思えない奇妙すぎる合成獣だった。顔は黒い毛に覆われた丸い形で、ぱっと見た感じは梟に似ている。
しかし嘴が真っ赤で、銀色の目玉が四つもあるよ。
身体は大型の犬くらいで、前後の肢が鱗で覆われている。毛に覆われていない尻尾の先が、チョウチンアンコウの提灯みたいに弱い光を放っていた。
幻妖は俺の方を見て、鈴虫みたいな鳴き声を発しはじめた。銀色の目も充血しだしたのか、だんだんと紅く染まっていく。
「ア、アンドゥ……」
セラフィが俺の背中にしがみつく。
どうする。俺が身を呈して守らなければならないけど、剣も刻印も部屋に置いてきてしまった。
どうする……!?




